潟上市

潟上市は秋田県のほぼ中央にあり、日本海の沿岸部に位置しています。八郎湖に接する広大な秋田平野が肥沃な穀倉地帯を形成し、秋田市のベッドタウンとしての性格もあります。日本海の漁港では、鯛やアマダイ、アジなどが漁獲されます。
概要
- 面積
- 97.72km2
- 人口
- 31,063人(2023年9月1日)
- 市の木
- クロマツ
- 市の花
- バラ
- 市の鳥
- シラサギ
- 地図
歴史
滋賀県琵琶湖に次いで日本第2位の面積を誇る八郎潟は、古くから干拓が計画された地でした。渡部斧松は初めて八郎潟の干拓に着手し渡部村を新設しました。こうした農業を守る活動は多くの人に受け継がれて、菅原源八は天保の大飢饉で苦しむ難民を救済し、石川理紀之助は窮乏する農村を救う活動を行いました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
八郎潟の豊かな自然を活かした漁業が行われ、後山遺跡や元山根遺跡、狐森遺跡などの縄文時代中期から晩期の遺跡も数多く発見されています。
古墳時代、飛鳥時代
畿内を中心とした大和王権の影響が及んでおらず、古墳は確認されていません。
奈良時代、平安時代
元慶2年(878年)には日本三代実録において、秋田城下の一村として方上の地名が使われていました。
鎌倉時代、南北朝時代
奥州征伐で奥州藤原氏が滅亡すると、その遺領には関東御家人が地頭として配置され、南秋田郡には橘公業が地頭として入部しました。藤原氏配下の大河兼任が鎌倉幕府に対して反旗を翻すと、橘公業は敗れて鎌倉に敗走しました。やがて海賊的な活動を行う安東一族が土崎湊を拠点として、湊安東家として土着するようになりました。
室町時代、安土桃山時代
檜山安東家の安東愛季の弟・安東茂季が湊安東家の家督を継ぐと、元亀元年(1570年)に豊島玄蕃頭が周辺の国人と同調して湊騒動と呼ばれる謀反を起こしました。安東愛季の援軍もあり反乱は鎮圧され、豊島玄蕃頭は山根館の仁賀保氏を頼り落ち延びました。檜山安東家と湊安東家は統合され、安東実季が秋田氏を名乗りこの地を統治しました。
江戸時代
関ヶ原の戦いの戦後処理で佐竹氏が転封すると、久保田城から弘前城を結ぶ羽州街道の整備が進められ、大久保・下虻川地区には宿場が設けられました。天保4年(1833年)の天保の大飢饉で、大久保新関地区の長名役を務めた菅原源八は、三百両を超す私財を投じて難民を救済しました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治4年(1871年)の廃藩置県で秋田県が成立しました。大正2年(1913年)から豊川油田で石油の採掘が始められました。平成17年(2005年)に南秋田郡の天王町、昭和町、飯田川町が合併して潟上市が誕生しました。
石川理紀之助
石川理紀之助は、明治政府の農民への厳しい政策により農村が衰退したことを憂い窮乏する村民を救うため山田経済会を設立して活動を行いました。明治11年(1878年)に談話会と種子交換会を設立し、明治15年(1882年)に秋田県種苗交換会としました。石川理紀之助は各地の農村を救済するなかで適地適産があることを知り、明治35年(1902年)までに地域の実態を731冊の調査書として取りまとめました。

石川理紀之助遺跡尚庵
石川理紀之助は各地の農村を指導して老農や農聖と敬称されました。石川理紀之助は晩年の10年間を尚庵で過ごし生涯を貧農救済に捧げました。

石川理紀之助墓
石川理紀之助は前田正名の依頼を引き受け、自費で宮崎県北諸県郡谷頭の農業指導を行いました。山田村には石川理紀之助とその家族の墓が残されています。