北秋田市

北秋田市は秋田県の北部中央に位置する豪雪地帯で、市域の8割以上を森林が占めます。森吉山を主峰とする山間部は豊富な鉱物資源を産出し、天然秋田杉やブナ原生林などの自然に恵まれます。北秋田市北部を横断する米代川が鷹巣盆地を中心とする優れた農地を形成し、豊かな自然とともに生きるマタギの文化を色濃く残します。
概要
- 面積
- 1,152.76km2
- 人口
- 27,962人(2023年9月1日)
- 市の木
- ブナ
- 市の花
- アジサイ
- 市の鳥
- クマゲラ
- 地図
歴史
奥州藤原氏が滅亡して甲斐国の浅利氏が地頭となりました。浅利則頼は勢力を拡大して全盛期を築きますが、安東家に従属しました。江戸時代に佐竹氏が転封すると街道筋の宿場町として発達し、日本三大銅山の阿仁鉱山の開発や新田開発により久保田藩の財政を支えました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
旧石器時代から縄文時代にかけて人びとが定住をはじめ、縄文時代後期の伊勢堂岱遺跡や漆下遺跡、縄文時代晩期の白坂遺跡が形成しました。日本海や米代川を通じて北海道や中日本各地と交流していましたが、弥生時代には米代川流域の遺跡は少なくなります。

小又峡
森吉山東麓のノロ川原生林を源として大小100余りの瀑布、 おう穴、深淵からなる原生峡で、秋田県最後の秘境とも呼ばれています。

伊勢堂岱遺跡
湯車川沿いの河岸段丘にある縄文時代後期の遺跡で、4つの環状列石を中心に配石遺構、掘立柱建物跡、土坑墓、柱穴、溝状遺構などが発掘されています。
古墳時代、飛鳥時代
古墳文化圏には含まれず北海道を中心とする続縄文文化圏に入り、古墳時代の痕跡は見当たりません。
奈良時代、平安時代
平安時代には農地が開けており、平安時代中期に十和田噴火によるシラスで埋没した胡桃館遺跡から人名と米の量が書かれた木簡が出土しています。一説では、和銅6年(713年)に阿仁鉱山で産出した青銅が朝廷に献上され、東大寺の大仏の製造に使われたと伝わります。
鎌倉時代、南北朝時代
源頼朝の奥州征伐で奥州藤原氏が滅亡すると、その旧領は関東御家人に与えられ、甲斐国浅利郷を本拠とする浅利義遠が地頭に任ぜられました。
室町時代、安土桃山時代
浅利則頼が甲斐国から比内に本拠地を移しました。浅利則頼は北秋田市明利又に入り、その後大館市比内町に独鈷城を築いて支配下に置きました。浅利則頼は勢力を拡大して全盛期を築きますが、浅利則祐が家督を相続すると腹違いの弟浅利勝頼と対立して内乱となりました。浅利勝頼は安東氏と結び、永禄5年(1562年)に浅利則祐を攻め滅ぼして安東氏に従属しました。
江戸時代
羽州街道、阿仁街道、五城目街道などの街道整備により街道筋の宿場が発達しました。延慶2年(1309年)から金山として開発された阿仁鉱山は、享保元年(1716年)には産銅日本一を記録し、別子銅山、尾去沢鉱山と共に日本三大銅山のひとつに数えられ、久保田藩佐竹氏の経済を支える基礎となりました。また八ヶ村堰や鷹巣三堰など水路整備や農地整備により米の生産性が向上しました。

大堤一里塚
秋田藩主佐竹義宣が設置した羽州街道の一里塚で、街道を挟んで二つの盛土が残ります。旅人の道しるべや人馬を借りる駄賃の目安にもなりました。

内館文庫跡
弘長2年(1262年)に別当武内氏の開祖である常覚院元瑞道亨が綴子神社の境内に創設し、山伏修験道奥義秘伝書など平安期からの古文書を所蔵していました。
明治時代、大正時代、昭和時代
阿仁鉱山はドイツ人鉱山技師を招き入れるなどして生産増強に力を注ぎました。明治18年(1885年)に古河鉱業に経営権が移りましたが、昭和45年(1970年)に閉山となりました。平成10年(1998年)に大館能代空港が開港しました。平成17年(2005年)に鷹巣町、合川町、森吉町、阿仁町が新設合併して北秋田市が誕生しました。