にかほ市

にかほ市は秋田県南西部に位置し、南に鳥海山、西に日本海を臨む山と海に抱かれた風光明媚な街です。鳥海山の山体崩壊と岩なだれにより日本海を広く埋め立て現在の市域をほぼ形成し、国の天然記念物に指定されている象潟ができました。降雪量も少なく秋田県内で春の訪れが最も早い比較的温暖な地域です。
概要
- 面積
- 241.13km2
- 人口
- 22,109人(2023年9月1日)
- 市の木
- むら杉
- 市の花
- ねむの花
- 市の鳥
- 海鵜
- 市の魚
- 鱈
- 地図
歴史
大和王権の影響が及びにくく続縄文時代が続いた地域は、鎌倉幕府の成立から由利氏が御家人として支配下に置きました。鳥海山の噴火や象潟地震などの災害に見舞われながらも、由利氏の庶家のひとつ仁賀保氏が一時期を除いて明治時代まで統治しました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
上熊ノ沢遺跡やヲフキ遺跡などから縄文時代の住居跡が確認され、上熊ノ沢遺跡では弥生時代の竪穴住居が見つかりました。縄文時代後期の大竹遺跡からは土器や石器のほか土偶の破片などが出土しています。
古墳時代、飛鳥時代
大和王権の影響が及びにくく古墳があまり発見されていませんが、菅先遺跡からは縄文時代から続く集落跡が見つかりました。金環が出土した上浜大砂川の古墳は、奈良時代以降につくられた在地有力者の墓とされています。
奈良時代、平安時代
仁寿3年(853年)に慈覚大師円仁が蚶満寺を創建し、斉衡3年(856年)に慈覚大師円仁が鳥海大権現蔵王権現を奉じて金峰神社を創建しました。慈覚大師円仁は別名地獄谷とも呼ばれる三崎山旧街道の難所を開いたとも言われています。

奈曽の白瀑谷
約10万年以前の鳥海山の溶岩でできた落差26メートルの滝で、近くの小滝集落は鳥海山の修験者が集団で居住し、滝を荒行場として使用していました。
鎌倉時代、南北朝時代
奥州藤原氏の討伐に参陣した由利氏は、その戦功で所領が安堵されて御家人としての地位を確立しました。日本海に面した港町として、蝦夷地との交易や畿内方面との物資の流通が盛んになりました。
室町時代、安土桃山時代
由利氏は仁賀保氏、打越氏、子吉氏などの多くの庶家にわかれ、応仁元年(1467年)から由利十二頭のひとつ仁賀保氏が領有しました。出羽庄内の大宝寺義氏が越後上杉氏から独立を目指すと仁賀保氏は大宝寺氏らと戦うことになり、仁賀保氏は背後から矢島氏に攻められるなど苦境に立たされましたが、豊臣秀吉の奥州仕置や関ヶ原の戦いでも改易されず存続しました。

山根館跡
応徳2年(1085年)に由利氏が築いた城で、由利十二頭の仁賀保氏の祖・大井友挙が入城してから7代135年にわたり仁賀保氏の居城となりました。
江戸時代
関ヶ原の戦いで常陸国武田に移された仁賀保氏でしたが、元和9年(1623年)に最上氏の改易に伴い仁賀保挙誠が戻されて仁賀保藩の初代藩主となり、本拠を山根館から塩越城に移しました。寛永元年(1624年)に仁賀保挙誠が死去すると、領地は分割されて一部が天領となりました。塩越湊は北前船の寄港地として大阪や松前へ運ばれる米や海産物などが運び込まれて賑わいました。幕末の戊辰戦争で最終的に新政府に与したため庄内藩や南部藩などと対立して三崎口で戦いとなりました。
度重なる災害
文化元年(1804年)の象潟地震で2メートル近く隆起するなど大きな被害を出し、万治2年(1801年)、元文5年(1740年)、享和元年(1801年)に鳥海山が噴火しました。天保4年(1833年)の飢饉では多くの犠牲が生じました。

三崎山旧街道
小砂川地域の三崎山につけられた日本海側の街道で、古くから馬足不通の難所でありながら重要な役割を果たし、江戸時代に一里塚が築かれました。

由利海岸波除石垣
江戸時代に本荘藩の助成により造営された石垣で、日本海の波浪や強風による塩害から農地と農作物、海岸沿いの北国街道の決壊を守りました。

象潟及び汐越
松尾芭蕉の奥の細道ゆかりの地で、元禄2年(1689年)に象潟を訪れています。松尾芭蕉は能因島や蚶満寺などを訪れて俳句を詠んでいます。
明治時代、大正時代、昭和時代
平成17年(2005年)に象潟町、仁賀保町、金浦町の三町が合併してにかほ市が誕生しました。

院内油田跡
明治11年(1923年)に地質学博士ベンジャミン・ライマンが発見した院内油田は、国内屈指の産油量を誇り不夜城と呼ばれましたが、平成7年(1995年)に閉山しました。

上郷温水路群
鳥海山の雪解け水を利用して米の収穫量を増やすため、昭和2年(1927年)に太陽光で水を温める水路が整備されました。