仙北市

仙北市は秋田県の東部中央に位置し、岩手県と隣接している地域です。ほぼ中央に日本一水深が深い田沢湖があり、東の秋田駒ヶ岳と北の八幡平の山並みが広がり南は仙北平野が開けています。地域の約8割が森林地帯で、乳頭温泉郷や玉川温泉など温泉地が数多くあります。
概要
- 面積
- 1,093.56km2
- 人口
- 22,833人(2023年9月1日)
- 市の木
- ブナ
- 市の花
- サクラ
- 市の鳥
- イヌワシ
- 市の歌
- 仙北市民の歌
- 地図
歴史
旧石器時代から狩猟や農耕を営む人びとが生活し、平安時代まで続縄文文化を続けました。鎌倉時代に南部氏に攻められた戸沢氏が本堂氏を頼り逃げ延び、門屋城を築いて統治を始めました。江戸時代は佐竹氏の支配下で角館は城下町として繁栄しました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
田沢湖一帯からは多くの石器や土器、堅穴住居跡などが発見されており、旧石器時代から狩猟や農耕を営む人びとが住んでいました。袖野遺跡には旧石器時代のサークルストーンが造営され、田沢湖東岸の潟前遺跡から旧石器が出土し、縄文時代中期の集落跡が見つかりました。
古墳時代、飛鳥時代
5世紀に古墳文化の影響下にあるで集落が営まれましたが、6世紀に続縄文文化の影響下に入りました。
奈良時代、平安時代
蝦夷に対する支配を強化するため秋田城や払田柵が築かれていきました。蝦夷と大和朝廷は摩擦や衝突を繰り返しながら律令制度が浸透していきました。平安時代には高野遺跡などに集落が形成しました。
戸沢氏の成立
源氏が平家討伐を進めると、木曽義仲の家臣平衡盛が離反して源頼朝に従い、奥州国雫石戸沢に所領を与えられ戸沢氏となりました。戸沢衡盛の家督を継いだ戸沢兼盛は南部氏に攻められ、出羽国の豪族本堂親朝を頼り逃れました。
鎌倉時代、南北朝時代
安貞2年(1228年)に戸沢兼盛が西木町門屋に城を築いて勢力基盤を確立していきました。本堂親朝が重臣の大館氏と大江氏に攻められると、戸沢兼盛は大館氏と大江氏を滅ぼし本堂城を修築し、戸沢氏と本堂氏の関係は親密なものとなりました。
室町時代、安土桃山時代
門屋城を拠点としていた戸沢氏は、応永30年(1423年)に角館の小松山に館を置いて拠点を移し、その北東側に城下町を整備していきました。戸沢盛安は豊臣秀吉から大名として認められ、慶長7年(1602年)に戸沢政盛は譜代大名に格上げされて常陸国へ移されました。

戸沢氏城館跡(門屋城跡)
戸沢平九郎兼盛が小山田城に代わる居城として築いた城で、天正18年(1590年)に豊臣秀吉の命により廃城となる戸沢三十五城のひとつです。

戸沢氏城館跡(古堀田城跡)
築城年代は定かではありませんが、小保田豊盛が居城としていたとされます。天正18年(1590年)に豊臣秀吉の命で廃城となりました。
江戸時代
関ヶ原の戦いによる国替で佐竹義宣の弟である芦名義勝が治めますが、芦名氏が3代で断絶してから佐竹義隣が入部しました。田沢湖の水を利用した新田開発や林政改革が進められ、馬産地の形成が進みました。陸奥相馬中村藩浪人で鉱山の陶製ルツボ製作のために招聘された松本運七は、明和8年(1771年)に白岩に良質の陶土を発見して秋田藩で初めての窯元となる白岩焼を開窯しました。安永2年(1773年)に鉱山指導に招かれた平賀源内は、伝統行事である紙風船上げを伝えたとされます。

白岩焼窯跡
明和8年(1771年)に白岩焼陶祖の松本運七が開いた秋田県最古の窯元で、最盛期には6つの窯に5千人の働き手を抱える窯業地で白岩瀬戸山とも呼ばれました。

旧青柳家武家屋敷
青柳家は蘆名家の重臣で、蘆名家が途絶えたあとは佐竹北家に仕えました。上級武士に許された薬医門があり、母屋は茅葺屋根の寄棟造りです。

岩橋家武家屋敷
岩橋家は蘆名家の重臣で、蘆名家が途絶えたあとは佐竹北家に仕えました。家屋は江戸時代末期に改築され、茅葺屋根から木羽葺きに変更されています。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治29年(1896年)の真夏山地震(六郷地震)で白岩焼窯は壊滅状態になり、わずかに復興した窯も明治33年(1900年)に終焉を迎えました。昭和15年(1940年)に電源開発と農地開拓のため玉川の強酸性水が田沢湖に流入して田沢湖の環境が破壊されました。平成17年(2005年)に平成の大合併で仙北市が誕生しました。

檜木内川堤(サクラ)
全長2キロにも及ぶ桧木内川土手に植えられたソメイヨシノのトンネルで、昭和9年(1934年)に上皇陛下御誕生記念として植えられました。