南秋田郡

南秋田郡は秋田県のほぼ中央に位置し、出羽丘陵の美しい山並みを背景に中心を馬場目川が流れる自然豊かな低地の町です。大潟村は田畑を含めた湿地性里山にあり海水や淡水で土地が冠水したり一定期間冠水する低地で八郎潟町は干潟の八郎潟が広がります。
概要
- 面積
- 449.98km2
- 人口
- 20,250人(2023年9月1日)
- 含まれる町村
- 五城目町、八郎潟町、井川町、大潟村
- 地図
歴史
秋田城の前身となる石崎遺跡の古代城柵跡は、秋田城の整備に伴い秋田郡衙となりました。日本第2位の広さがある八郎潟を利用して農業や漁業が営まれてきましたが、戦後の食糧不足を解消するため、八郎潟の干拓が進められました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
ナウマンゾウの化石が出土し、古くから人が生活していた可能性が高いです。縄文時代中期の沢田遺跡、小野台遺跡などがあり、縄文時代後期から晩期の中山遺跡からは、亀ヶ岡文化の影響を受けた亀ヶ岡式土器が見つかりました。弥生時代に農耕が伝わり、志藤沢遺跡や新間遺跡から籾殻がついた土器が出土しています。
古墳時代、飛鳥時代
斉明天皇4年(658年)に阿倍比羅夫が遠征して秋田浦から侵攻したことが日本書紀に記されています。
奈良時代、平安時代
稲作適地の八郎潟周辺では小谷地遺跡の灌漑堰の整備など干拓事業が行われました。貝保遺跡には集落が形成し、石崎遺跡は秋田城へと移されて秋田郡衙となり、秋田城北部の官衙として中谷地遺跡が整備されました。元慶2年(878年)には上津野(鹿角)、火内(大館)、椙淵(北秋田)ら米代川流域と八郎潟周辺の十二村が独立を求めて蜂起し、秋田城を襲う元慶の乱が起きました。馬場目川下流一帯は、反旗を翻した十二村のひとつ大河村に比定されています。

岩野山古墳群
八郎潟東岸の台地先端部に立地する群集墳で、8世紀半ばから9世紀前半に築造された土壙墓が30基以上確認されておりています。

雀館古代井戸
古代の儀式の場所である鎮め館の井戸とされ、井戸底から黒色土器が出土しました。年月が経過していく過程で鎮め館が雀館に変化したという説もあります。
鎌倉時代、南北朝時代
文治5年(1189年)に藤原氏配下の大河兼任が東北経営に乗り出した源頼朝に反旗を翻し、男鹿の橘公業は敗れて鎌倉に敗走しました。大河兼任は平泉まで迫りましたが、北上した源頼朝の追討軍に敗れて命運が尽きました。橘氏は秋田を去り、出羽守は藤原行春が務めることとなりました。
室町時代、安土桃山時代
安東愛季の家臣である藤原秀盛は、天正10年(1582年)に浅利勝頼が謀反を起こしたあと、比内代官として浅利氏の居城である大館城に入り比内地域の統治に当たりました。天正16年(1588年)の湊安東氏の湊騒動以降に藤原秀盛が八郎潟地方の五城目地域を支配するようになり、地名に因んで五十目氏を称して五十目秀兼と名乗りました。五十目秀兼は南部信直に内応して南部勢の大光寺光親を比内地域に引き入れ、一時的に比内地域が南部氏の支配下になる原因を作りました。

五城目城(砂沢城)
藤原秀盛が安東愛季の命で当地を任されて築城した城で、慶長6年(1601年)に秋田氏の転封により五十目氏もこの地を去り破却されました。

雀舘主郭跡
馬場目川がある小高い丘に整備された五城目城の支城で、現在は雀舘公園として整備されています。主郭らしき空間と平坦な曲輪のような遺構や土塁跡が見られます。
江戸時代
関ヶ原の戦いの戦後処理で佐竹氏が転封して久保田藩を立藩しました。寛永3年(1626年)に戸村堰が完成するなど新田開発が盛んに行われました。元禄7年(1694年)の能代地震で八郎湖湖岸が隆起すると、湖北部に久米岡新田村が開発されました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治4年(1871年)の廃藩置県で秋田県が成立しました。戦後の食糧不足を解消するため、昭和31年(1956年)から八郎潟干拓が進められ、昭和52年(1977年)に完成しました。