仙北郡

仙北郡は秋田県の中央部で横手盆地の東部に位置します。東側は奥羽山脈が連なり、丸子川やその支流が形成する六郷扇状地や千屋扇状地が穀倉地帯を生んでいます。清らかな湧水が豊富な地として知られ、美しい湧水や雄大な山並みなど日本の原風景を彷彿とさせる景観が広がります。
概要
- 面積
- 168.32km2
- 人口
- 17,463人(2023年9月1日)
- 含まれる町村
- 美郷町
- 地図
歴史
中央から蝦夷と呼ばれた人たちが生活していた地は、やがて大和王権の勢力下へと組み込まれていきました。清原氏の内紛に源義家が介入して後三年の役となり、金沢地区はその舞台となりました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
古くから人の営みがあり、縄文時代には奥羽山脈の西部にあたる真昼山地に一丈木遺跡や中屋敷遺跡などの集落が形成しました。弥生時代に稲作が伝えられましたが、寒冷な地には不向きで定着していないようです。

一丈木遺跡
縄文時代中期全般にわたり利用された集落跡で、竪穴住居跡や屋外炉、焼土遺構、土器埋設遺構、配石遺構などが発見されています。

飯詰竪穴群
湖畔に囲まれた丘陵にある縄文時代中期から晩期の集落跡で、打製石斧128点、石匙25点、石鏃8点のほか竪穴住居跡が発見されました。
古墳時代、飛鳥時代
大和王権の影響が遅れて波及してきたため、畿内に比べて古墳の数が少なく、6世紀後半の横穴式石室をもつ郷上古墳など規模が小さいです。
奈良時代、平安時代
延暦10年(791年)に坂上田村麻呂が蝦夷討伐で訪れ、春日森に戦勝祈願の札をかけて春日神社を創建したとされます。清原武貞の跡を継いだ清原真衡が急死して源義家の仲介で清原清衡と清原家衡の異母兄弟に領地が分配されましたが、この分配に反発した清原家衡が反旗を翻して源義家と清原清衡の連合軍に滅ぼされました。この後三年の役で全ての領地を手に入れた清原清衡は、姓を藤原に戻して奥州藤原氏の祖となりました。

雁橋
源義家が金沢柵に進軍していたとき、上空を一列に並んで飛んでいた雁が列を乱したため、伏兵が潜んでいることを察知して敵を倒しました。
鎌倉時代、南北朝時代
奥州藤原氏が滅亡すると、その遺領には多くの関東御家人が地頭職を与えられて入部しました。陸奥国和賀郡を与えられた和賀忠頼の三男・和賀忠朝は、承久2年(1220年)に出羽国の本堂館ノ沢の地に進出して本堂氏として土着しました。陸奥南部を与えられた二階堂氏も六郷の地に進出しました。
室町時代、安土桃山時代
天正10年(1582年)頃に二階堂道行が六郷姓に改称したとされます。六郷氏や本堂氏ら小領主は、戸沢氏や小野寺氏の諸勢力に挟まれていましたが、いずれの勢力にも属すること無く独自の勢力として一定の地位を保ちました。
六郷氏の大名化
天正18年(1580年)の奥州仕置で所領を安堵された六郷政乗は、関ヶ原の戦いで本堂氏ら小領主たちと東軍に与しました。小野寺氏がこれまでの確執で最上氏と対立すると、六郷氏は小野寺氏を積極的に攻撃しました。この戦功により六郷政乗は常陸国府中を加増され大名となり、のちに出羽国由利郡を領して本荘に住して明治時代まで続きました。
本堂氏の再興
本堂義親は戸沢氏と戦いで討死し、その跡を継いだ本堂頼親も金沢城の山本氏との戦いで討死するなど3代続けて当主が討死する苦難の時期が続きました。本堂忠親は天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐に参陣し、元本堂、黒沢などの中郡約9千石の領地を安堵されました。本堂忠親の跡を継いだ本堂茂親は、関ヶ原の戦いで東軍として参戦して最上義光の指揮のもとで活躍し、慶長6年(1601年)に常陸国新治郡志筑に転封になりました。

本堂城跡
天文4年(1535年)に本堂忠親が築いた小領主としては規模の大きな城で、慶長6年(1601年)に本堂氏が常陸国に転封となり廃城となりました。
江戸時代
慶長7年(1602年)に佐竹氏が出羽国秋田郡に転封となり、六郷城は佐竹義重の居城となりました。一国一城令により六郷城は廃城となりますが、羽州街道や生保内街道が敷設されたことでかつての城下町として商業が発達しました。天保4年(1833年)に久保田藩は素掘り水路を整備し、新田開発に着手しました。

黄金清水
佐竹義重が六郷に隠居するときに休憩した場所で、金銀を与えられた村人たちは黄金原と呼ぶようになり、佐竹義重が飲んだ清水を黄金清水と呼びました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治29年(1896年)の陸羽地震、大正3年(1914年)の強首地震で大きな被害を生じました。昭和13年(1938年)に水不足の六郷地域の水田に水を供給するため、関田円形分水工が建設されました。

真昼山三輪神社
明治29年(1896年)の陸羽地震で活動した千屋断層が横切り、この地震の断層運動で台地が3メートルほど隆起しました。

一丈木の松
明治30年代に代議士を辞して帰村した坂本東嶽が、林野の開発に着目した理想の村づくりの一環として放射状に敷設した道路の両側に松や杉を植樹しました。