郡山市

郡山市は福島県の中央に位置する東北有数の経済都市で、西に奥羽山脈と猪苗代湖があり東は阿武隈山系、北は安達太良山があります。市街地東部を阿武隈川が南北に貫流し比較的穏やかな内陸性気候で、明治時代に広大で不毛な原野を開拓する国営開拓事業第1号の安積開拓が行われました。
概要
- 面積
- 757.20km2
- 人口
- 326,242人(2021年11月1日)
- 市の木
- ヤマザクラ
- 市の花
- ハナカツミ
- 市の鳥
- カッコウ
- 地図
歴史
郡山市は旧石器時代から人の営みが残されています。鎌倉時代に伊東祐長が派遣され、南北朝時代には南朝と北朝が宇津峯を中心に争いました。複数の領主たちが乱立しますが、やがて伊達家、葦名家、佐竹家の争乱の舞台となりました。江戸時代に宿場が設けられ商業が発展しますが、水不足に悩まされ荒れ地と化していました。現在のように農地が広がるのは、明治時代に安積疏水が造営されてからとなります。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
今から4万年~1万3千年前の旧石器時代は、現代よりも気温が5~7度低く日本列島は大陸と陸続きでした。縄文時代になると川沿いの高台などで半地下式の竪穴住居を建てて人が生活するようになり、弥生時代には水田で稲作が行われるようになり、福楽沢遺跡から籾痕のついた弥生土器が出土しています。

浄土松山
日本三景の松島に似ていることから陸の松島と呼ばれている景勝地です。断層で分断された地層が風化して突出した奇岩があります。

ナウマンゾウの臼歯
旧石器時代の宮田A遺跡、郡山館遺跡、荒井猫田遺跡、熱海遺跡などでは、大陸から移動してきたマンモスやナウマンゾウなどの大型哺乳類を捕食していました。

びわ首沢遺跡の遺物
縄文時代に新田遺跡、びわ首沢遺跡など大規模な集落が相次いで営まれ、大槻八頭遺跡では竪穴住居跡の内部から火を焚いた炉跡が見つかりました。
古墳時代、飛鳥時代
水稲耕作が発展するにつれ、集落には社会的格差が生じて有力者が生まれました。有力者は古墳を造営して墓とし、郡山市には正直三五号墳、大安場古墳などの前方後円墳が造営されました。7世紀前半の渕の上一号墳では冑などが発掘されていることから、奈良時代の政治拠点である郡衙に受け継がれたとされています。

大安場古墳
古墳は前方後円墳から円墳へと姿を変え、大安場古墳では前方後円墳の1号墳が4世紀後期に造されたあと、5世紀後半に円墳の2~5号墳が造営されました。

針生古墳
古墳時代末期に造営された古墳で、一大古墳地帯を形成していました。
奈良時代、平安時代
律令国家が成立すると安積郡には清水台遺跡に郡衙が置かれ、これが郡山の名前の由来とされています。養老6年(722年)に東北地方の耕地開発を奨励する法令が出されると、河川流域に限られていた集落も山間地などにも広がりました。奈良時代の様子は、采女物語の伝説として郡山市に残されています。
采女物語の伝説
冷害続きの不作で朝廷に貢物ができずにいたとき、奈良から巡察使葛城王が派遣されました。里人は王に貢物の免除を訴えますが、王は里長の娘春姫を帝の采女として献上することを条件に貢物を免除しました。春姫は許嫁と別れて朝廷へ赴きますが、許嫁を忘れられず入水自殺を装い安積郡に戻りました。しかし許嫁は生きておらず、春姫は許嫁と同じ山の井の清水に身を投じてあとを追いました。
静御前の入水伝説
平家を討伐した源義経は、やがて兄の源頼朝に追われる身になりました。源義経の側室である静御前は、奈良の山中で源義経と別れると、奈良で僧兵に捕らえられ鎌倉に連行されました。静御前は北条政子から白拍子を披露するよう命じられ、源義経を恋い慕う歌を謡いました。源頼朝は激怒しましたが北条政子のとりなしで解き放たれ京都に戻されました。静御前は奥州に向かう道中に源義経の訃報に接し、文治5年(1189年)に美女池に入水したとの伝承が残されています。

うねめまつり
巡察使葛城王に采女として献上された春姫が許嫁を追い山の井の清水に身を投じました。この悲しい采女物語は祭りとして残されています。

静御前堂
源義経の側室である静御前は奥州に向かう道中に源義経の訃報に接して美女池に入水したとの伝承が残されています。
鎌倉時代、南北朝時代
南朝方の北畠顕家に従う守山城主田村宗季は、標高677メートルの宇津峯を拠点としました。北朝方は貞治3年/正平元年(1364年)に一斉攻撃して宇津峯を攻め落としました。足利尊氏と足利義直が争い観応の擾乱が起こると北朝方は分裂して影響力が弱まり、南朝方の北畠顕信は後醍醐天皇の孫・守永親王を奉じて再び宇津峰城に立て籠もりました。田村一族は宇津峰で奮戦しましたが、文和2年/正平8年(1353年)に北朝方から一斉攻撃を受けて落城しました。守永親王と北畠顕信は出羽から北奥羽へと逃れ、奥羽地方の南北朝の戦いは事実上終結しました。
萩姫伝説と磐梯熱海温泉
京都の公家万里小路藤房の一人娘である萩姫は、原因不明の病で床に臥していました。萩姫の侍女雪枝は姫の治癒を願い比叡山に篭ると、不動明王から京から五百番目の川に霊泉ありとお告げを聞きます。萩姫は雪枝と京都を旅発ち、500本目の川で磐梯熱海温泉を発見しました。

磐梯熱海温泉
奥州藤原氏討伐の功で源頼朝から安積郡を与えられた工藤祐経は、次男の祐長を安積郡に配して安積伊東氏が成立し、伊東祐長は望郷の念から熱海と名付けました。

安子島城遺物
安積伊東氏の庶流の安子島氏は安子島城を本拠としました。城跡からは火鉢が発見されています。

宇津峰(千人溜)
南朝方の田村一族は籠城して戦いましたが、戦いに破れて奥羽の歴史舞台から消えていきました。本丸には守永親王、後村上天皇、後亀山天皇を祀る祠が残ります。

霊泉元湯
萩姫伝説では、萩姫が磐梯熱海温泉の霊泉で病が治り美人な姿になりました。この伝承から美人の湯と言われています。
室町時代、安土桃山時代
鎌倉公方足利満兼は、応永6年(1399年)に下向していた稲村公方を支援するため、足利満直を篠川公方として派遣して篠川御所を構えました。この頃は鎌倉公方は将軍家と緊張関係にあり、永享の乱で足利持氏は幕府軍に戦い敗れ殺害されました。鎌倉公方に恩がある結城氏朝は、足利持氏の遺児春王丸と安王丸を擁立して永享12年(1441年)に結城合戦を起こしますが、この合戦で足利満直は南奥国人衆に襲撃され篠川公方は滅亡しました。安積郡は伊達氏や葦名氏の影響を受けつつ、安積伊東氏、田村氏、二階堂氏など複数の領主が存在する状態となりました。
戦国時代
天正8年(1580年)に御代田城を巡り佐竹義重らが田村清顕を攻めました。伊達輝宗の仲介により和議が成立しますが、田村領は大きく削られて葦名氏や二階堂家の影響が大きくなりました。やがて佐竹義重の子義弘が葦名家当主となると葦名氏と佐竹氏が共闘して伊達氏に対抗するようになり、天正16年(1587年)の郡山合戦では伊達勢は劣勢となりますが、豊臣秀吉による惣無事令などで休戦となりました。伊達政宗は翌年に片平親綱、大内定綱、横沢三郎を取り込んで葦名領を攻め、安子島城の阿子島治部が降伏、高玉城では城主高玉義直ほか女・子供に至るまで撫で斬りにされて全員殺害されました。天正18年(1590年)の豊臣秀吉の奥州仕置により郡山市域は会津の支配下となり、安子島城と守山城が会津若松城の支城となりました。
江戸時代
奥州街道の整備に合わせて安積郡には笹川・日出山・小原田・郡山・福原・日和田・高倉の7宿、安達郡では本宮・杉田・二本松・油井・二本柳・八丁目の6宿が置かれました。寛永20年(1643年)に丹羽長重が二本松藩を興すと、安積郡は会津藩から二本松藩領に編入され、安積三組(郡山・片平・大槻)の代官所や年貢米を収納する蔵場が置かれました。水が少ない荒れ地の安積郡では五百川などに堰を設けて灌漑池が造営されましたが、それでも水不足に悩まされ続けて寛延2年(1749年)の大飢饉により二本松藩のほか三春藩、会津藩、守山藩で大規模な寛延一揆が起きました。
戊辰戦争
慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争では、新政府軍は江戸城を開城させてから会津藩、庄内藩の追討に兵を向けました。二本松藩を含む東北25藩と越後国6藩は奥羽越列藩同盟を結び、新政府軍の侵攻に対抗しました。白河口を突破された会津兵は安積郡で放火や強奪を起こし、農民は代官所などを打ち壊しました。二本松藩丹羽長国は米沢に退き、米沢に逃げ落ちて郡山三代官も引き上げたため、郡山は情勢が不安定となりました。

郡山市街
会津、三春、いわきへの分岐点である郡山は、交通の要衝として次第に宿場も拡張され、山本伊勢守らの豪商が住む町として発展していきました。

鈴木信教墓
戊辰戦争で荒廃した如宝寺の住職に招かれた鈴木信教は、戦争で何もかも失い困窮する家庭の子供たちを養育するなど社会福祉事業に尽くしました。
明治時代、大正時代、昭和時代
4回におよぶ空襲により壊滅的な被害を受けましたが、昭和50年(1975年)の東北自動車道の開通、平成3年(1991年)の東北新幹線の開通、平成5年(1993年)の福島空港の開通など交通が整備されて中核都市として成長を続けています。

開拓者の群像
明治4年(1871)に県令・安場保和が安積開拓事業に着手し、旧米沢藩士の中條政恒の働きかけで明治6年(1873年)に阿部茂兵衛ら地元富商たちが開成社を結成しました。

安積疏水麓山の飛瀑
のべ85万人が3年かけて猪苗代湖から水を引いて五十鈴湖を造営され、西洋農法を採用したことで収穫量が増えました。