歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

白河市

福島県白河市の白河小峰城

白河市は、那須連峰を望む福島県の南部中央に位置します。阿武隈川、社川、隈戸川をはじめとする多くの河川が縦横に流れ肥沃な平地が広がります。古くからみちのくに続く交通の要衝として発展し、日本三大提灯まつりの一つに数えられる白河提灯まつりなどの文化が息づきました。

概要

面積
305.32km2
人口
58,583人(2022年2月1日)
市の木
アカマツ
市の花
ウメ
市の鳥
ホオジロ
地図

歴史

京と東北を分ける地として、古代の関所・白河関が置かれました。白河関は奥州三古関のひとつに数えられ、役目を終えてから都の文化人たちの憧れの歌枕の地となりました。江戸時代には小峰城を中心とする白河藩が立藩し、白河藩主松平定信が士民共楽の地として日本最古の公園といわれる南湖公園を造営しています。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

古くから人が生活しており、一里段A遺跡から旧石器時代後期の石器が見つかりました。縄文時代の町屋遺跡からはヒスイ製の硬玉製大珠が出土し、新潟県糸魚川地域のヒスイが使われています。やがて稲作農耕が伝わり、天王山遺跡から炭化した米のほか、雑穀や木の実が出土しています。

福島県白河市の天王山遺跡

天王山遺跡

阿武隈川左岸の独立丘陵頂上部に立地する弥生時代後期前半の集落跡です。多くの土器とともに石器、炭化した米などが出土しました。

古墳時代、飛鳥時代

古墳時代中期には東日本最大級の祭祀遺跡である建鉾山祭祀遺跡が造営されました。6世紀後半に築造された下総塚古墳は東北地方最大規模を誇る前方後円墳で、白河国造の墓と考えられています。

奈良時代、平安時代

大化元年(645年)の大火の改新により律令体制が取り入れられ、陸奥国最大規模の白河郡が成立して郡衙が置かれました。平安時代末期には藤原信頼や平重盛、後白河天皇など皇室や都の有力者の荘園になりました。

福島県白河市の白河舟田・本沼遺跡群(下総塚古墳)

下総塚古墳

下総塚古墳・舟田中道遺跡の一つで、6世紀後半の古墳時代後期に築造された墳丘長72メートルの前方後円墳です。

福島県白河市の白河舟田・本沼遺跡群(舟田中道遺跡)

舟田中道遺跡

下総塚古墳・舟田中道遺跡の一つで、6世紀後半から7世紀前半に造営された豪族の居館跡とされ、下総塚古墳の被葬者に関連がある一族が暮らしていたと考えられます。

福島県白河市の白河舟田・本沼遺跡群(谷地久保古墳)

谷地久保古墳

下総塚古墳・舟田中道遺跡の一つで、7世紀後半から8世紀初頭に造営された円墳です。被葬者は古墳の構造の特異性などから古代白河郡の郡司などの盟主層と考えられています。

福島県白河市の白河舟田・本沼遺跡群(野地久保古墳)

野地久保古墳

下総塚古墳・舟田中道遺跡の一つで、7世紀後半から8世紀初頭に造営された全国でも珍しい上円下方墳です。上円下方墳は全国5例目で東北地方では初めて発見されました。

福島県白河市の白河関跡

白河関跡

奈良時代から平安時代にかけて陸奥国に通じるみちのくの玄関口とされてきた古代関です。大和朝廷の勢力圏の北限の基地として空堀跡や土塁跡が残ります。

鎌倉時代、南北朝時代

文治5年(1189年)に源頼朝が奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼしました。戦功を挙げた結城朝光は白河荘を与えられ、13世紀後半に結城祐広が白河荘南方の地頭として下向して白河結城氏の祖となりました。結城宗広は後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕の命に従い、鎌倉を攻める新田義貞らに呼応して幕府を滅亡に追い込んでいます。結城宗広は南朝方となりましたが、子の結城親朝は北朝方に転身して家の存続に腐心しました。

福島県白河市の白川城跡

白川城跡

正応2年(1289年)に結城祐広が下向して築城しました。南朝方の拠点として、元弘3年(1333年)に義良親王と陸奥国司北畠顕家を迎え入れています。

室町時代、安土桃山時代

暦応3年/興国元年(1340年)に結城親朝が小峰城を築城し、長男結城顕朝に白川城を与え、次男結城朝常に小峰城を与えて小峰氏を称しました。小峰氏は惣領家を上回る勢力となり、永正7年(1510年)の永正の変で惣領の結城政朝を那須に追放し、小峰氏の血統による新たな白河結城氏が創設しました。この争乱で白河の南東部は常陸の佐竹氏、北西部は会津の葦名氏、北部では伊達氏が勢力を拡大し、白河結城氏は佐竹氏、葦名氏を経て伊達氏に従属しました。天正18年(1590年)の豊臣秀吉による奥羽仕置で白河結城氏は改易となり、蒲生氏郷の領地として家臣の関一政が支配しました。

江戸時代

寛永4年(1627年)に会津藩主蒲生忠郷が嗣子の無いまま死去し、領地を没収されたことで丹羽長重が白河藩を立藩して初代藩主となりました。家督を継いだ丹羽光重が二本松に転封されてからは譜代や親藩大名が封じられています。長らく白河藩主を務めたのは松平久松家で、中でも松平定信は天明の大飢饉で領内から餓死者を出さない善政を行い、老中に抜擢されて寛政の改革を行いました。

松平定信の白河藩政

松平定信は家臣に武芸を奨励して武備祭を復興し、藩校を拡張して立教館を建設し、庶民のための敷教舎を白河と須賀川の二箇所に設けました。荒廃した農村を復興するため飢饉対策の米穀を貯蔵する郷蔵の設置し、町人に織物や漆器、製茶、和紙、キセル製造などの産業を促進しました。所在不明の白河関跡を古文献の調査などで断定して領内の名所古蹟を調査した近治可遊録を編纂し、文政元年(1818年)には白河の歴史を白河古事考として纏めました。

戊辰戦争

白河藩主は松平家から阿部家を経て、幕府領となりました。幕末の戊辰戦争では奥羽越列藩同盟軍と新政府軍が小峰城の掌握を巡り戦いとなりました。約3カ月にわたる戦いで死傷者は千名を越え、これは会津戦争の犠牲者よりも多いものでした。

福島県白河市の小峰城跡

小峰城跡

寛永9年(1632年)に丹羽長重が石垣を多用した近代城郭に大改修し、奥州の外様大名の抑えに相応しい名城となりました。

福島県白河市の南湖公園

南湖公園

享和元年(1801年)に白河藩主・松平定信が身分に関係なく誰もが楽しめる士民共楽の理念のもとに築造した庭園で、日本最古の公園と言われています。

福島県白河市の稲荷山古戦場

稲荷山古戦場

稲荷山に陣を敷いた会津藩や仙台藩ら東北諸藩は、新政府軍との戦闘で甚大な被害を出しました。白河小峰城が新政府軍に奪還されるも執拗に抵抗しました。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治2年(1869年)に白河県が発足し、明治4年(1871年)に二本松県に吸収されたのち福島県に合併しました。明治20年(1887年)に鉄道が開通して上野と結ばれ、大正5年(1916年)に白河と棚倉を結ぶ白棚鉄道が開通しました。昭和24年(1949年)に誕生した白河市は、平成17年(2005年)に合併して現在の市域となりました。