大沼郡

大沼郡は、福島県西部に位置し自然が豊富な豪雪地帯です。会津桐の産地として知られ、昭和村は伝統織物の上布の原料となる苧麻を栽培生産している本州唯一の村です。会津美里町は高田梅や朝鮮人参など特徴的な農産物が栽培され、会津発祥の起源に由来する伊佐須美神社があり、東北最古の焼き物である会津本郷焼などの伝統工芸があります。
概要
- 面積
- 870.52km2
- 人口
- 22,802人(2022年2月1日)
- 含む町村
- 三島町、金山町、昭和村、会津美里町
- 地図
歴史
平安時代末期に会津郡から分置した大沼郡は、会津地方を支配した蘆名氏などの支配下に置かれました。江戸時代に保科正之が会津藩主となり、一部天領を除き幕末まで松平氏(保科氏)が支配しました。幕末の戊辰戦争では戦場になり大きな被害を受けました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
縄文時代前期に沼沢山が噴火したため、縄文時代晩期から人の痕跡が残されます。佐渡畑遺跡や荒屋敷遺跡などは弥生時代にかけても継続して人が生活しています。
古墳時代、飛鳥時代
不思議にも古墳は多くなく、長尾原古墳群のほか太郎布高原に7世紀の円墳である糠塚古墳が造営された程度しか見つけられませんでした。
奈良時代、平安時代
養老2年(718年)に石背国の中に会津郡が設置されました。8世紀に畿内から訪れた遊行僧徳一大師が磐梯山麓に恵日寺を建立して会津に仏教文化を広め、大同2年(802年)には会津に30余りの寺院を建立して僧兵を擁して武士団を形成しました。

左下り観音
山の中腹にある岩を切り開いて構築した三層閣で、五間四面、高さ四尺八寸、東向きで廻り縁がある寺院です。天長7年(830年)に徳一大師が建立したとされています。

秘仏無頸観音
延長年間(923~929年)に越後から逃れてきた者が追手に捕らえられて打ち首となりましたが、観音様が身代わりとなり観音様の石頸にすり替わっていました。
鎌倉時代、南北朝時代
文治5年(1189年)に奥州藤原氏を滅ぼした源頼朝は、会津六郡を佐原十郎義連、河原田近江守盛光、長沼五郎入道宗政、山ノ内季基に与えました。佐原氏は葦名氏と称し、山ノ内氏は山ノ内七騎党と呼ばれる軍事体制を作り上げました。

大光寺供養塔(板碑)
阿弥陀如来の梵字が刻まれている板碑です。延応2年(1240年)の銘が刻まれており、東北で7番目、県内では最古の板碑です。
室町時代、安土桃山時代
弘治元年(1555年)の会津大地震の隙を突いて、山ノ内俊政・俊範兄弟が蘆名氏の岩屋城を攻め滅ぼしました。蘆名盛氏は山ノ内氏討伐を図りますが、山ノ内政清の仲裁により山ノ内氏は葦名氏の軍門に下りました。天正17年(1578年)の摺上原の戦いで蘆名氏が滅亡しますが、山ノ内氏は伊達氏に抵抗を続けました。翌年の豊臣秀吉の奥州仕置で伊達氏は岩出山城に移封され、所領を与えられた蒲生氏郷の下で山ノ内氏は存続しました。

向羽黒山城跡
永禄4年(1561年)に蘆名盛氏が家督を蘆名盛興に譲り自身が隠居するために築城をはじめ、のちに伊達政宗や蒲生氏郷が改修を加えました。
江戸時代
江戸時代前期には石原経塚が造営され、後期に修験者が鮭立の磨崖仏を造営しました。寛永20年(1643年)に保科正之が会津藩主となり、南会津郡全域が幕府が直接管理する南山御蔵入地となりました。享保5年(1720年)に南山御蔵入騒動が起きました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治元年(1868年)の戊辰戦争で大芦で戦闘となりました。明治2年(1869年)に若松県となり、明治9年(1876年)に福島県に統合されました。