西白河郡

福島県西白河郡は、阿武隈川に接して田んぼや畑の広がる平坦な土地です。西部の西郷村と東部の泉崎村、中島村、矢吹町で構成されます。 矢吹町は東北自動車道や東北新幹線、福島空港などの交通体系に恵まれています。
概要
- 面積
- 306.81km2
- 人口
- 48,868人(2022年2月1日)
- 含む町村
- 西郷村、泉崎村、中島村、矢吹町
- 地図
歴史
古代の白河郡役所である関和久官衙遺跡が置かれ交通の要衝として発展しました。室町時代には伊達政宗が侵攻し、幕末の戊辰戦争では小峰城を巡り明治政府軍と会津軍が戦いが起こりましたが、現在は東北自動車道や東北新幹線、福島空港などの交通体系に恵まれています。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
成田遺跡から旧石器時代の遺物が発見されています。縄文時代後期~晩期の牛窪遺跡からは25基の墓塚が見つかり、弥生時代の新田遺跡から磨製石器が出土しています。
古墳時代、飛鳥時代
古墳時代後期の6世紀後半から泉崎横穴などが造営されました。

泉崎横穴
6 世紀後半から7 世紀初頭に造営された横穴墓で、赤い顔料で描かれた壁画で知られています。副葬品として直刀や刀子、銅環などが出土しています。

鬼穴古墳
7世紀前葉に築造された円墳で、数少ない両袖式石室の横穴式石室が残されています。玄室は床面に玉石が敷き詰められていました。
奈良時代、平安時代
大化2年(646年)に陸奥国が成立して白河郡に属し、養老2年(718年)に石背国に分離されますが、神亀5年(728年)に石背国は陸奥国に合併しました。白河地方は藤原信頼の荘園がありましたが、平治の乱で藤原信頼が殺害されたため平重盛の領地となりました。

白河官衙遺跡群(関和久官衙遺跡)
7世紀末から10世紀後半まで機能した陸奥国白河郡の古代の役所と考えられています。大堀が囲む敷地内には整然と立ち並ぶ礎石建物跡(正倉院)などが確認されています。

白河官衙遺跡群(借宿廃寺跡)
関和久官衙に付属する古代寺院跡で7世紀末に造営されました。西側に塔、東側に金堂があり、その北側に講堂がある法隆寺式の伽藍配置されていました。
鎌倉時代、南北朝時代
奥州平定を成し遂げた源頼朝は、源義家に従軍して戦功を挙げた源有光に領地として与えました。源有光は石川氏を名乗り、五男・奈目津光房が滑津舘を築いて統治しました。

観音山磨崖供養塔婆群
鎌倉時代につくられた仏教彫刻で、自然の崖面に梵字が刻まれています。弘安8年(1285年)銘の墨書が残る板碑も残されています。
室町時代、安土桃山時代
文安元年(1444年)に滑津舘城主の舟尾昌忠は佐竹氏の配下となり、天正18年(1590年)に伊達政宗に攻められて滑津舘は落城しました。この年、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、奥州仕置で白河地方を会津藩領としました。
江戸時代
寛永4年(1627年)に白河藩領になり、寛保2年(1742年)にその一部が越後高田藩領の飛地を経て天領となりました。稲作に適していない農地は困難の連続で、天明の大飢饉では多くの餓死者を出しました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治元年(1868年)の戊辰戦争で小峰城を巡り西郷村で戦いとなり、剣豪・森要蔵が戦死するなどの激戦で大きな被害を受けました。明治2年(1869年)に白河県が誕生し、明治4年(1871年)に二本松県となり、明治9年(1876年)に福島県に統合されました。明治24年(1891年)には皇族や政府高官が狩りを楽しむ岩瀬御猟場が開設しました。アジア太平洋戦争が終結すると食糧難を解消するため、甲子高原など各地で開拓が進められました。矢吹町は青森県十和田市、宮崎県川南町とともに日本三大干拓地と称されています。

西郷村歴史民俗資料館
昭和10年(1935年)に軍馬補充部白河支部事務所として建設されました。明治30年(1897年)に創設した軍馬補充部は軍馬を育てて戦地に供給しました。