石川郡

石川郡は、福島県の中通り南部にあり阿武隈川流域の平坦地と阿武隈山系に連なる山間地から形成されます。豊かな自然があふれる農村で、日本三大ペグマタイト鉱物産地としても知られます。浅川の花火や古殿八幡神社の流鏑馬などの行事も行われます。
概要
- 面積
- 456.52km2
- 人口
- 36,576人(2022年2月1日)
- 含む町村
- 石川町、玉川村、平田村、浅川町、古殿町
- 地図
歴史
奥州征伐で軍功を挙げた源有光が領地を与えられ、その子孫が石川氏を称して勢力を拡大しました。江戸時代は会津領、白河領、天領とめまぐるしく支配者が変わりましたが、武士が支配する城下町ではなく百姓や町人が支配して独特の発展を遂げました。明治時代にはペグマタイト鉱床の採掘が始められ、日本三大ペグマタイト鉱物産地となりました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
旧石器時代から人の営みが残されています。上悪戸遺跡や薬師堂遺跡などから黒曜石のナイフ形石器などが見つかりました。縄文時代には常世遺跡や達中久保遺跡など多数の遺跡が見つかりました。鳥内遺跡からは弥生時代の再葬墓群が多数発見されています。

鳥内遺跡
阿武隈川と社川との合流点にある縄文時代後期から弥生時代中期の遺跡です。出土した200個以上の壺や甕は九州や東海地方の影響を受けたものもあります。
古墳時代、飛鳥時代
阿武隈川及び支流の社川の河岸段丘上に大壇古墳群、悪戸古墳群、山神古墳群などが残されているほか、発木内古墳群や宮前古墳群などが造営されました。

大壇古墳群
6世紀初頭から7世紀初頭にかけて築造された前方後円墳2基と円墳7基からなる古墳群です。この地域を支配した首長墓と想定されています。

悪戸古墳群
横穴式石室を持つ円墳9基からなる古墳群です。開口している1号墳は墳丘の長さが最大で、7世紀初頭に築造されたと考えられています。

宮ノ前古墳
7世紀後半に築造された古墳です。墳丘は原形を留めていませんが、巨石を積み上げた横穴式石室の一部が残されています。
奈良時代、平安時代
阿武隈川東岸を中心に集落が営まれ、達中久保遺跡では93軒の竪穴住居跡が見つかりました。庚平7年(1064年)に安倍一族が反乱を起こした前九年の役で源頼義・義家に従い戦功を挙げた源頼遠が所領を得て、康平6年(1063年)に源頼遠の子・源有光が土着して石川氏を称しました。
鎌倉時代、南北朝時代
元久2年(1205年)に宥元和尚が須釜東福寺を創建しました。鎌倉幕府が崩壊すると石川氏は北朝方となり、建武3年(1336年)の足利尊氏による京都制圧で石川一族の小平義光も随行して比叡山で討死しています。

須釜東福寺舎利石塔
東福寺を開いた宥元和尚の遺骨が祀られている高さ180メートルの方型石龕です。鎌倉時代の弥勒浄土の思想を表現した珍しい構造です。
室町時代、安土桃山時代
室町幕府と鎌倉公方が敵対すると石川氏は幕府方となり、鎌倉公方方の白川氏と戦いとなりました。石川氏と白川氏の戦いは激化して二階堂氏と田村氏の抗争に発展し、佐竹、蘆名、伊達が加わり争乱の舞台となりました。永禄11年(1568年)に石川晴光が伊達晴宗の四男親宗を養子に迎え石川昭光として家督を相続しました。石川昭光は伊達氏の一門衆となりますが、天正18年(1590年)の豊臣秀吉の奥州仕置で所領を没収され、甥である伊達政宗のもとへ去りました。
江戸時代
会津領、白河藩領、越後高田藩分領、幕府領(天領)など複数の支配を経て幕末に至りますが、商工業者が集住して武士が存在しない時代が300年ほど続きました。慶安年間(1648~51年)から南須釜の念仏踊りが奉納されるようになり、寛政10年(1798年)の農民一揆・浅川騒動の犠牲者供養のため浅川の花火が行われるようになりました。

南須釜の念仏踊り
亡き親族の御霊を供養するために東福寺の境内で奉納される踊りです。毎年春と夏の2回、色鮮やかな振袖に花笠と手甲脚絆をまとう少女が参加します。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治2年(1869年)に白川県となり、明治5年(1872年)の磐前県を経て、明治9年(1876年)に福島県に編入されました。石都々古和気神社の宮司職を務める家系に生まれた吉田光一は、河野広中とともに東日本で最初の政治結社・有志会議を設立しましたが、のちに福島事件で弾圧されました。明治40年(1907年)に和久観音山鉱山跡でペグマタイト鉱床の採掘が始められ、アジア太平洋戦争の末期にはウラン鉱採掘が行われています。