歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

土浦市

茨城県土浦市の土浦城跡

土浦市は茨城県南部に位置します。西方に筑波山が聳え、東方には霞ケ浦がある起伏の少ない関東ローム層の平坦な地形に市街地が形成されています。適度な降水量と比較的温暖な気候により水と緑に恵まれ、蓮根栽培は日本一を誇り、霞ケ浦はワカサギや白魚などの水産資源が豊富です。

概要

面積
122.89km2
人口
141,763人(2022年2月1日)
市の木
ポプラ・ケヤキ
市の花
サクラ
市の鳥
ヨシキリ・ウグイス
地図

歴史

日本で2番目に広い霞ケ浦の周辺には旧石器時代から人が住んでいました。大掾氏が力をつけましたが、鎌倉時代に八田知家が下向して小田氏を名乗るようになりました。小田氏は戦乱の世で何度も小田城を落とされましたが、不死鳥のようにしぶとく取り返しました。江戸時代には、ほとんどを土屋氏が藩主を務めました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

旧石器時代から暮らしていた人びとは、縄文時代に土器を製造して食料を保存するようになりました。安定的に食料が確保できるようになり、人口が増加して各地に集落も生まれました。

茨城県土浦市の霞ケ浦

霞ケ浦

日本で2番目に大きな湖で、縄文時代に霞ケ浦は海と繋がる入り江となりました。土器を利用して食料を安定的に確保できるようになると、人口が増加して集落が生まれました。

茨城県土浦市の上高津貝塚

上高津貝塚

縄文時代後期から晩期に造営された全国有数の大規模な貝塚で、7割の貝が早春から初夏にかけて集中的に採集され、乾貝などに加工して保存していました。

古墳時代、飛鳥時代

4世紀末から5世紀前半には、土浦市内では最大の古墳という王塚古墳とその近くに后塚古墳が造営されています。上坂田の台地には、縄文時代終末期の7世紀後半に武者塚古墳が造られました。

奈良時代、平安時代

常陸国は11の郡からなり、土浦市域は茨城・筑波・河内・信太の4郡に跨りました。桓武平氏の系譜で平惟幹を祖とする大掾氏は国府が置かれていた石岡市を基盤として、一族を行方、真壁、小栗、吉田、東條、鹿島、馬場の7郡の地頭に任じて支配しました。

茨城県土浦市の東城寺経塚群

東城寺経塚群

延暦15年(796年)に桓武天皇の勅命により最澄の弟子・最仙が東城寺を建立し、保安3年(1122年)と天治元年(1124年)に東城寺経塚群が造営されました。

茨城県土浦市の小野小町墓

小野小町墓

平安時代の六歌仙の一人で美女として知られる小野小町は、京都から奥州に旅する途中に元慶7年(883年)に土浦市小野の地で没したと言われます。

鎌倉時代、南北朝時代

宇都宮宗綱の四男・八田知家は、鎌倉幕府を開いた源頼朝から信頼を得て常陸国守護となり、大掾氏に代わり霞ケ浦西部を支配しました。八田知家は13人の合議制にも名を連ねますが、比企能員の変などにも参加せずに独自路線を貫きました。八田知家の跡を継いだ八田知重は、小田城を本拠地として小田知重と名乗りました。小田氏は北条得宗家と結びつきを強め、御家人たちが没落するなか常陸国で勢力を保ち続けました。南北朝時代になると小田家当主小田治久は南朝方として北畠親房を迎い入れ、小田城が南朝方の一大拠点となりました。

茨城県土浦市の藤原藤房卿遺跡

藤原藤房卿遺跡

後醍醐天皇の公卿で鎌倉幕府討伐計画に参画しますが、元弘元年(1331年)に京都有王山で捕縛されて常陸国に配流となり、小田高知に預けられました。

室町時代、安土桃山時代

相模国の後北条氏と関東管領を引き継いだ越後国の長尾景虎(上杉謙信)が関東を巡り争うと、永禄7年(1564年)に小田氏治は上杉方に攻められて小田城を失い土浦城に退きますが、まもなく小田城を奪い返しました。小田氏治は永禄12年(1569年)に常陸国北部の佐竹氏や桜川市の真壁氏との争いで敗れて佐竹氏の軍門に下りました。佐竹氏が常陸を平定しましたが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで徳川家康が実権を握ると佐竹氏は秋田に移封されました。

茨城県土浦市の土浦城跡櫓門

土浦城跡

室町時代の永享年間(1429~40)に若泉三郎が築いたと言われます。かつては平将門が砦を築いたとする伝説が残されています。

江戸時代

佐竹氏に代わり松平信一が土浦に入り土浦藩が立藩しました。その後、大阪の陣で功績がある西尾忠永から朽木稙綱を経て寛文2年(1662年)に土屋数直が藩主となりました。土浦は慶長9年(1604年)に江戸と水戸を結ぶ水戸街道が通され、江戸湾に至る水路も整備されて年貢米や醤油・油・木材などを運ぶ船が往来しました。旅篭や問屋が置かれ、多くの商家が軒を連ねて商業が発展しました。土屋氏は天文元年(1532年)に神龍寺を創建して菩提寺とし、7代藩主土屋英直が創建した藩校郁文館は10代藩主土屋寅直が天保10年(1839年)に現在の場所に新築しました。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治4(1871)年に廃藩置県が行なわれ、土浦藩は土浦県になり、さらに府県の統廃合で新治県の一部となります。その後茨城県が成立し、明治22(1889)年の市町村制の実施で現在の土浦市を形づくることになる町村が生まれます。