石岡市

石岡市は茨城県の中央に位置し、北西部に連なる筑波山系から緩やかな丘陵地が広がります。東南へ流れる恋瀬川は日本第2の広さがある霞ケ浦へと流れます。肥沃な優良農地に高い技術が相まり酒造りや農産物加工などの地場産業が発達しています。
概要
- 面積
- 215.53km2
- 人口
- 71,713人(2022年2月1日)
- 市の木
- シイ
- 市の花
- ユリ
- 市の鳥
- ヒバリ
- 地図
歴史
石岡市はたくさんの古墳が造営されるなど、古くから人びとが生活していました。やがて常陸国国府が置かれると、国分寺が造営されるなど常陸国の中心として繁栄しました。大掾氏が支配して戦国時代末期まで数百年に渡り統治しましたが、江戸時代へと移り行くなかで水戸徳川家の分家が統治するようになりました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
旧石器時代に日本列島に人が住むようになり、那珂川流域で採集されたガラス質黒色安山岩で製作された石器の原石(石核)が下ノ宮遺跡から発掘されています。縄文時代から人が定住するようになり、下ノ宮遺跡から縄文土器や弥生時代の有角石器が出土しました。縄文時代中期に園部川をのぞむ台地上に造営された東大橋原遺跡から土器焼成遺構が検出され、発掘された翡翠の大珠は翡翠の産地糸魚川との交流を示唆します。
古墳時代、飛鳥時代
弥生時代に稲作農耕が始まり、統治した首領が前方後円墳などの古墳を造るようになりました。高友丘陵には丸山古墳、長堀2号墳、佐自塚古墳などの前方後円墳が造営され、恋瀬川河口付近の高台には舟塚山古墳や府中愛宕山古墳が造営されました。

丸山古墳
4世紀後半に造営された茨城県内最古の前方後円墳です。横穴式石室から出土した銅鏡や鉄剣、鉄槍、銅鏃などの武器類や玉類は大和王権との密接な関わりを示唆します。

長堀2号墳
長堀古墳群のひとつで4世紀後半頃の築造と推定されており、丸山古墳とともに茨城県内最古級の古墳の可能性が高いといわれています。

舟塚山古墳
5世紀中期に造営された茨城県最大の前方後円墳で、円筒埴輪が出土し陪塚と考えられる円墳から木棺、短甲、直刀、盾などの副葬品が発掘されています。

府中愛宕山古墳
6世紀前半に造営された前方後円墳で舟塚山古墳群で2番目の大きさがあります。埋葬者は舟塚山古墳の埋葬者に次ぐ有力者で墳形は大阪府の応神天皇陵に類似しています。
奈良時代、平安時代
奈良時代になると石岡市は常陸国の一部となり、その中心地となる国府が7世紀末に山王川と恋瀬川により形成された石岡台地上に置かれました。天平13年(741年)に聖武天皇の勅願により全国に国分寺が創建されました。
源氏と平家の争い
源頼朝は治承4年(1180年)に以仁王が下した平家討伐の勅令で挙兵して駿河の富士川で平家に勝利しました。京を目指す源頼朝は後顧の憂いを除くため、平家方の常陸国佐竹氏を討伐するために常陸国府に入りました。佐竹秀政は金砂城に籠もり対抗しましたが、金砂城は落城して敗走しました。

常陸国府跡
常陸国府は11世紀までのおよそ300年間機能しており、北側には宗教的な役割を担う常陸国分寺、国分尼寺跡などが設けられました。

瓦塚窯跡
国府や国分寺などに瓦を供給した窯跡で奈良から平安時代にかけて100年以上稼働しました。20基以上の窯跡が残されており、茨城県内で最大級の瓦窯跡と言われます。

常陸国分寺跡
聖武天皇の勅願により各地に国分寺が建てられました。常陸国分寺は中門、回廊、金堂、講堂、鐘楼などの施設が建ち並ぶ巨大な寺院でした。

常陸国分尼寺跡
尼僧が常駐する寺院で、中門、金堂、講堂などが並びました。法華の墨書銘のある土器が出土し、法華経の功徳により未来成仏を祈願したことが伺えます。

佐竹義政の首塚
佐竹秀政の兄・佐竹義政は上総介広常の勧めで源頼朝に謁見することとなり、国府に向かう途中の大矢橋で斬殺され、胴体は園部川に流されて下流で埋葬されました。
鎌倉時代、南北朝時代
鎌倉幕府を開いた源頼朝は、御家人八田知家を常陸国の守護職として統治させました。源頼朝は平家に仕えて寿永2年(1183年)の屋島合戦で活躍した藤原景清(平景清)を八田知家に預けますが、やがて絶食して果てて平等寺内に供養塔が建てられたと伝えられます。
室町時代、安土桃山時代
桓武平氏の流れを汲む大掾氏は水戸城を拠点としていましたが、大掾詮国が正平元年(1346年)から堅固な府中城を築城して本拠を移しました。天正18年(1590年)に小田原征伐で後北条氏が滅ぶと、佐竹義宣が常陸国を安堵され、大掾清幹が籠る府中城は攻められて常陸大掾氏は滅亡しました。佐竹氏の統治は長くは無く、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで佐竹義宣が石田三成と通じていたことから、慶長7年(1602年)に秋田に移封となりました。
江戸時代
元和8年(1622年)に皆川広照が府中領主となりますが、2代後の皆川成郷が嗣子なく没したため、元禄11年(1698年)に旗本として所領を得ていた皆川広隆を遠江国に移して、元禄13年(1700年)に水戸藩主徳川綱條の叔父松平頼隆が入封して府中松平藩を立藩しました。

石岡の一里塚
慶長9年(1604年)に江戸と水戸を結ぶ水戸街道が通されると、府中(石岡)から長岡に通じる街道には石岡の一里塚が設けられました。

石岡陣屋
府中藩松平家は水戸徳川家の分家であり、御連枝と呼ばれて常に江戸に居住しました。このため所領を得た石岡には陣屋が置かれました。

山県大弐の墓
宝暦9年(1759年)に柳子新論を著して尊王論を説きましたが、幕府転覆の疑いで明和3年(1766)に捕縛されて処刑されました。

佐久良東雄旧宅
佐久良東雄は万延元年(1860年)の桜田門外の変の中心人物である水戸藩士高橋多一郎を大阪で匿い、その罪で幕府に捕らえられて江戸伝馬町の監獄で絶食して命を絶ちました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治2年(1869年)に府中藩は石岡藩となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で石岡県が置かれました。石岡県は明治8年(1875年)に茨城県と新治県が合併して茨城県となりました。全国的に人口が増加すると食料増産を目的として、大正8年(1919年)に高浜の醤油醸造業者である羽成卯兵衛と真壁町の猪瀬蔵太郎が八木の干拓工事に着手しています。その後は特に大きな動きもなく、昭和28年(1954年)に石岡市が誕生して現在に至ります。