笠間市
笠間市は茨城県の中央部に位置します。北西部は八溝山系が緩やかに連なる丘陵地帯により平坦な台地が広がり、本地域の中央を涸沼川が北西部から東部にかけ貫流しています。東日本屈指の窯業地のひとつとして、伝統ある笠間焼が有名です。
概要
- 面積
- 240.40km2
- 人口
- 72,395人(2022年2月1日)
- 市の木
- サクラ
- 市の花
- キク
- 市の鳥
- ウグイス
- 地図
歴史
鎌倉時代に常陸国守護職となる八田知家は、その四男に宍戸荘を与え宍戸氏としたほか、寺院の争いに介入した宇都宮氏が塩谷氏を置いて笠間氏としました。鎌倉幕府が滅亡してから争乱の時代を迎えますが、やがて佐竹氏が勢力を伸ばして支配下に置きました。佐竹氏が移封されてから宍戸藩と笠間藩が統治しました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
笠間市内では縄文時代から人の営みが残されています。石山神遺跡・寺平遺跡・行人遺跡など縄文時代後期から晩期にかけての遺跡からは、石斧・石鏃・石棒なども多く見つかります。やがて稲作が伝わると人びとは定住を始めるようになりました。
古墳時代、飛鳥時代
古墳時代になると豪族による集落の統治が始まり、古墳時代が終わりを迎えると日本各地には国や郡が成立していきました。笠間市域は常陸国に属し、新治郡、那珂郡及び茨城郡が置かれました。
御前塚古墳
9基からなる御前塚古墳群のひとつで、茨城県で2番目に大きな円墳です。
藤原藤房卿遺蹟
御前塚古墳群のひとつ藤塚古墳には、光西寺廃寺から発見された万里小路(藤原)藤房の墓碑があります。
奈良時代、平安時代
各地で荘園が置かれるようになると、桓武平氏の流れを汲む平直幹は涸沼川流域一帯を開墾しました。この荘園は九条家に寄進され、小鶴荘が成立しました。
鎌倉時代、南北朝時代
鎌倉幕府を興した源頼朝は、御家人八田知家を常陸国の守護職としました。八田知家の四男家政は宍戸氏を称したため、小鶴荘は宍戸荘と呼ばれるようになりました。修験者の修行の地である笠間市域では正福寺と徳蔵寺が激しく争いましたが、この紛争に乗じた宇都宮頼綱は両寺を討ち塩谷時朝にこの地を与えました。塩谷時朝は笠間姓を称するようになり、笠間市域で仏教振興に力を注いた統治を行いました。
南北朝の争乱
鎌倉幕府が滅亡して鎌倉に鎌倉公方が置かれると、鎌倉公方は私的争いを繰り返し勢力を拡大していた小山氏を攻撃しました。小山義政は討死し、逃げ延びた嫡男若犬丸は何度も鎌倉府に対して反旗を翻すようになりました。元中3年/至徳4年(1386年)に若犬丸は突然祇園城を攻略しますが、鎌倉府の攻撃を受けて敗走し小田孝朝のところに身を潜めました。
難台山城跡
小田孝朝の子・小田五郎藤綱が若犬丸に加担して挙兵しますが、上杉朝宗を大将とする鎌倉府が難台山城を攻略し、小田五郎藤綱は部下と共に自刃しました。
室町時代、安土桃山時代
佐竹氏が台頭すると宍戸氏は佐竹氏の配下となりました。天正18年(1590年)の小田原征伐では笠間綱家が本家の宇都宮家に反逆の様子を見せたため、笠間氏は宇都宮国綱に滅ぼされました。一方、小田原征伐の活躍が認められた佐竹義宣は、文禄4年(1595年)に常陸国のほか下野国や南奥羽が所領として認められました。宍戸義利は佐竹義宣から真壁郡内を預けられ、長らく統治した笠間市から離れました。
江戸時代
慶長6年(1601年)に徳川家康の譜代大名である松平康重が入封し笠間藩が成立しました。笠間藩は藩主がめまぐるしく交代しましたが、延亭4年(1747年)に牧野貞通が入封してからは藩主が固定されました。笠間藩が整備した城下町は、水戸街道と結城街道の中継地点として発展しました。江戸時代中期以降は、金鉱石の採掘・酒造業・和紙生産などが行われ、江戸時代後半には箱田村の久野半右衛門道延が笠間焼を始めています。
宍戸藩
慶長7年(1602年)の佐竹氏の移封に伴い、秋田から秋田実季が移封され宍戸藩が成立しました。正保2年(1645年)に秋田俊季が三春藩に移封となると宍戸藩は廃藩となり天領に組み込まれましたが、天和2年(1682年)に松平頼雄が再び宍戸藩を立藩しました。宍戸松平藩は水戸徳川家の分家筋にあたるため水戸藩の支藩となり、幕末の尊王攘夷運動で過激に活動する水戸天狗党の乱に巻き込まれて取り潰されています。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治4年(1871年)の廃藩置県で笠間藩は笠間県、宍戸藩は宍戸県となりますが、同年にどちらも茨城県に統合されました。水戸線の開通により、明治22年(1889年)に宍戸駅が明治29年(1896年)に友部駅が設置されました。昭和9年(1934年)に設置された霞ケ浦海軍航空隊友部分遣隊は昭和13年(1938年)に筑波海軍航空隊として独立し、太平洋戦争の悪化に伴い多くの人たちが戦地に赴きました。