牛久市
牛久市は、茨城県南部に位置します。北西部から南東部にかけて小野川が流れ、北部の乙戸川や桂川が合流します。自然豊かな田園都市で、近年は首都圏のベッドタウンとして宅地開発が発展しました。夏は高温多湿で、冬は冷たく乾いた北西の季節風である筑波おろしが吹きます。
概要
- 面積
- 58.92km2
- 人口
- 84,231人(2021年12月1日)
- 市の木
- キンモクセイ
- 市の花
- キク
- 市の鳥
- ウグイス
- 地図
歴史
旧石器時代から人が生活を始めた牛久氏は、常陸国守護八田知家の下向して子孫が小田氏を名乗るようになると、執権北条氏から関東管領上杉氏に引き継がれた信太荘の領地を巡り争いが起こりました。小田原征伐の功績で由良氏が入りますが2代で断絶となり、これ以降は明治時代まで山口氏が統治しました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
牛久市は旧石器時代から人が生活を始め、馬場遺跡や隼人山遺跡ではナイフ形石器が発掘され、旧石器時代後期のヤツノ上遺跡や東山遺跡から大形の尖頭器が発見されています。やがて赤塚遺跡などで集落が形成されるようになると、牛久沼東岸の城中貝塚などで採集した魚や貝、鳥獣の骨を廃棄した跡が形成されました。
古墳時代、飛鳥時代
弥生時代に農耕文化が伝わると農耕を中心とした生活が営まれ、各地に首長が現れるようになりました。首長は牛久最大の蛇喰古墳や獅子見塚古墳のような前方後円墳を造営して自身の墓としました。古墳時代前期の姥神遺跡では、集落と方形周溝墓が同じ場所に造営されています。
奈良時代、平安時代
7世紀後半になると中央政府は律令の制定に力を入れ、牛久氏は常陸国信太郡と河内郡が置かれました。水戸を経て陸前国に至る街道筋に集落が形成されるようになり、姥神遺跡やヤツノ上遺跡などから文字が書かれた土器なども発見されています。
鎌倉時代、南北朝時代
宇都宮宗綱の4男として生まれた八田知家は、鎌倉幕府を開いた源頼朝から信頼を得て常陸国守護となりました。執権北条氏が台頭して信太荘の支配権が北条氏に奪われ、鎌倉幕府が滅亡すると鎌倉府傘下の上杉家が信太荘を支配しました。八田知家の子孫である小田孝朝は南朝方に与し、関東管領山内上杉氏と対立して上杉氏被官土岐原氏と抗争を繰り広げました。この戦乱において、小田治久の二男が岡見城を本拠として岡見氏を名乗り牛久市域を支配するようになりました。
室町時代、安土桃山時代
佐竹氏の常陸国南進により小田氏が衰退すると、牛久市域が後北条氏と佐竹氏の抗争の最前線となりました。岡見氏と土岐氏は小田氏を離れて後北条氏の配下となり、岡見氏が本拠としていた牛久城には在番衆が置かれて境界の監視と防衛が強化されました。天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐では、北条方の岡見治広は大きな抵抗もせず降伏して牛久城は開城しました。やがて後北条氏が滅亡すると、小田原征伐で戦功を挙げた由良国繁の生母妙印尼に牛久城が与えられました。
江戸時代
由良国繁の跡を継いだ由良貞繁は嫡子不在のまま病没したため、元和7年(1621年)に由良氏は改易されました。由良領は幕領となりますが、寛永5年(1628年)に山口重政が由良旧領の一部を拝領して入封しました。山口弘隆は寛永6年(1629年)に牛久陣屋を構えて統治し、参勤交代が制度化されて江戸と水戸を結ぶ水戸街道が成立して、五街道についで重要な脇往還として牛久宿は本陣や旅籠屋などが設けられ人の往来が増えていきました。
牛久助郷一揆
街道の往来では、宿場に備え置かれた人馬を利用して、幕府が定める運賃を支払う制度が義務付けられていました。宿場の人馬が不足した場合は百姓が人馬を提供する助郷制度がありましたが、人の往来が増加したことで助郷の対象を広げようとしました。こうした助郷拡大に反対する百姓の勇七らは、文化元年(1804年)に牛久助郷一揆を起こして助郷拡大を願い出た牛久宿の麻屋治左衛門宅を打ち壊しました。一揆勢は容易に鎮圧されず近隣諸藩が応援する事態となり、幕府に相当な危機感を抱かせました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治4年(1871年)の廃藩置県で牛久県が誕生しますが、まもなく牛久県は廃されて新治県となり、明治29年(1896年)に東京から水戸までの鉄道が開通して牛久駅が設置されました。昭和40年代から首都圏のベッドタウンとして人口が増加すると、昭和61年(1986年)に市制が施行されて牛久市が誕生しました。
シャトーカミヤ旧醸造場施設
農産業を主産地としたのどかな純農村地帯で、明治36年(1903年)に開設した醸造場でワインが醸造されるようになりました。
牛久阿弥陀大佛
平成5年(1993年)に完成した全高120メートルの大佛で、平成7年(1995年)に世界最大の青銅製立像としてギネス登録されました。