かすみがうら市
かすみがうら市は、茨城県南部の中央に位置しています。筑波山南麓と霞ケ浦に挟まれた自然豊かな田園都市で、温暖な気候と豊かな自然環境を生かして多くの農作物が生産されます。日本第二位の広さがある霞ケ浦の湖岸では内水面漁業が盛んに行われます。
概要
- 面積
- 156.60km2
- 人口
- 39,444人(2022年2月1日)
- 市の木
- クリ
- 市の花
- アジサイ
- 市の鳥
- ウグイス
- 地図
歴史
かすみがうら市は縄文時代から人の営みがありました。奈良時代から霞ケ浦の水資源を活用して漁業や水運業が活発となりました。鎌倉時代に下河辺政義が下向して子孫が益戸氏を名乗り領有しますが、佐竹氏の台頭によりその軍門に降りました。佐竹氏が秋田に移封してからは本城氏が旗本として入り明治を迎えました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
日本第二位の広さを誇る霞ケ浦は、縄文海進により大きな入江を形成していました。ここに鬼怒川や小貝川が運んできた土砂が流入して現在の霞ケ浦となりました。この頃の人びとは、魚や貝、動物などを捕食して暮らしており、椿堂遺跡の一帯は打製石斧や磨製石斧などの石器が出土しています。
古墳時代、飛鳥時代
水田耕作が行われた弥生時代から有力首長が誕生し、霞ケ浦沿岸には多くの古墳が造営されました。
熊野古墳
5世紀前半に造営された古い形態の前方後円墳で、現在は墳丘頂部に熊野神社が遷座しています。
富士見塚古墳
6世紀前期に前方後円墳の周囲に数基の円墳が造営されて富士見塚古墳群が形成しました。直刀や金銅製馬具のほか管玉やガラス玉などが発見されています。
太子古墳
古墳時代後期にあたる7世紀前半に造営された前方後円墳で、現在は横穴式石室のみが露出しています。
奈良時代、平安時代
奈良から平安時代に流海と呼ばれていた霞ケ浦は、製塩業のほか漁業や水運業が盛んに行われました。桓武平氏の流れを汲む大掾氏は常陸国府の大掾職を世襲して常陸国南部を支配しました。大掾氏の一族は、行方、真壁、小栗、吉田、東條、鹿島、馬場の7郡の地頭として霞ケ浦沿岸部を支配しました。
歩崎観音
旅で訪れた僧侶が天平年間(729~749年)に創建した寺院です。行基菩薩が謹刻した十一面観音菩薩が祀られ、霞ケ浦の漁業や舟運関係者から信仰されました。
歩崎
霞ヶ浦が見渡せる景勝地です。三叉沖で暴風雨に遭遇した船頭が南無観世音菩薩と唱えたところ、菩薩様が篝火を掲げて現れて水上を歩いて船を引いたことから歩崎と呼ばれました。
鎌倉時代、南北朝時代
鎌倉幕府を開いた源頼朝は、元暦元年(1184年)に平家討伐の功績により御家人の下河辺政義に常陸国南部を与えました。下河辺政義は志筑城を居城としますが、 正治元年(1199年)に 源頼朝が没すると次第に存在感を失い、下河辺政義の子孫は常陸国南部に勢力基盤を移して益戸氏を名乗るようになりました。南北朝時代に佐竹氏と小田氏が北朝方と南朝方に分かれて争乱となり、6代当主・益戸国行は小田氏とともに南朝方に与して北朝方と戦いを繰り返しました。
志筑城跡
茨城南郡の地頭職・下河辺政義が築城したと伝わります。興国2年(1341年)に北朝方の大掾高幹に攻められて志筑城は落城して廃城となりました。
室町時代、安土桃山時代
小田氏は宍倉城を築城して重臣の野田遠江守や菅谷貞次が城主となりました。小田氏が衰退すると天正元年(1573年)に佐竹義重の攻撃を受けて菅谷氏は降伏し、佐竹氏が支配するようになりました。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで佐竹義宣が石田三成と通じていたことから、慶長7年(1602年)に佐竹義宣は秋田に移封となり、常陸国南部には秋田県仙北郡の小大名である本堂茂親が志筑に入りました。
宍倉城跡
天正18年(1590年)の小田原征伐で北条氏が滅亡すると、佐竹義宣が常陸一国を安堵されて文禄4年(1597年)に大山田刑部が宍倉城に入りました。
江戸時代
本堂茂親は1万石以下の旗本であるため、正保2年(1645年)から志筑城跡に陣屋を設けて政務を行い、旧領出羽国の瑞雲院を移して乗庵和尚により長興寺を創建して菩提寺としました。霞ケ浦は海上交通により江戸へ年貢米や物資を輸送する水運が発達していきました。本堂家老・横手郭応(義忠)は古代に行なわれていた義倉の制度を学び、文化9年(1812年)に志筑領内に義倉の制度を設けました。
千代田の一里塚
水戸街道が整備されると稲吉宿に本陣が設けられ、街道を通行する人のために千代田の一里塚が造営されました。
雪入の郷倉
年貢米の40分の1を籾納で領内の各戸から徴収して貯穀し、凶年には窮民へ無利息で貸し付け、平常の年はこれを藩の財政に繰り入れる仕組みを確立しました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治時代になると蒸気船が霞ケ浦でも見られるようになり、水戸線が明治 22 年(1889年)に、常磐線が明治28年(1895年)に開通して交通網が整備されて帆掛け船は衰退していきました。大正7年(1918年)に第一次世界大戦後の影響などで米の価格が上昇して米騒動が起こると、この対策として価格補償策と開墾助成法が制定され、霞ケ浦流域では開墾や干拓が行われました。