行方市

茨城県行方市は茨城県東南部に位置します。霞ケ浦と北浦に挟まれる長方形に近い形状で台地と低地からなります。霞ケ浦と筑波山の恵みにより肥沃な大地を形成し、霞ケ浦湖岸の一部は水郷筑波国定公園に指定されています。山海の幸に恵まれて多種多様な農作物が生産され、霞ケ浦の湖岸では内水面漁業が盛んに行われています。
概要
- 面積
- 222.48km2
- 人口
- 31,178人(2022年2月1日)
- 市の木
- イチョウ
- 市の花
- ヤマユリ
- 市の鳥
- シラサギ
- 地図
歴史
人びとは霞ケ浦と北浦で漁撈を営んで生活してきましたが、水田が造営されるようになると有力首長が生まれて多くの古墳が造営されるようになりました。平安時代に大掾氏が支配して、その一族である麻生氏が支配するようになります。やがて佐竹氏が支配下に置きますが、関ケ原の戦いで佐竹氏が秋田に移封となり、新庄氏が麻生藩を立藩して明治時代まで統治しました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
霞ケ浦沿岸は縄文時代に貝塚が多く造営されました。縄文時代中期から後期にかけて造営された成田早川貝塚からは縄文後期のミミズク型土偶も出土しています。環状列石が残される石神遺跡は、中心に棒状石を配して環状に小石が敷並べられています。
古墳時代、飛鳥時代
水田耕作が行われた弥生時代から有力首長が誕生し、霞ケ浦沿岸には多くの古墳が造営されるようになりました。鎌田川流域の沖積低地上には三昧塚古墳のほか勅使塚古墳、権現山古墳、大日塚古墳などが沖洲古墳群を形成しています。

三昧塚古墳
5世紀末に造営された霞ケ浦沿岸を治めていた有力首長の前方後円墳です。箱式石棺から金銅製馬形飾付冠、金銅製垂飾付耳飾などと遺骸が埋葬されていました。
奈良時代、平安時代
現在の石岡市に常陸国府が置かれると、行方市域は国府と鹿島神宮を結ぶ要地として栄えました。延暦元年(782年)には桓武天皇の勅願により最仙上人が西蓮寺を創建しています。桓武平氏の流れを汲む大掾氏は、石岡府中城を拠点として常陸国南部を支配すると、大掾氏の流れを汲む小領主たちが館を築きました。
鎌倉時代、南北朝時代
行方郡には行方景幹の子が行方四頭と呼ばれる武士団を形成しました。行方(小高)太郎、島崎次郎、麻生三郎、玉造四郎の四氏を指し、このうち麻生三郎は現在の羽黒山公園に麻生城を築城し居城としました。麻生三郎常安は麻生家の菩提寺として天文14年(1545年)に常安寺を建立しています。
室町時代、安土桃山時代
麻生氏は天正4年(1576年)に島崎氏の侵攻により滅ぼされましたが、天正19年(1591年)に島崎氏が佐竹氏に滅ぼされて佐竹氏の支配下となりました。佐竹氏の統治は長くは無く、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康により慶長7年(1602年)に秋田に移封されました。
江戸時代
慶長9年(1604年)に新庄直頼が麻生藩を立藩しました。元和5年(1619年)に東山麓に陣屋を設けて3代藩主新庄直好が明暦3年(1657)年に菩提寺として大意山海了寺を建立しました。5代藩主新庄直矩は継嗣不在のまま急死したため延宝4年(1676年)に改易されて麻生藩は廃藩となりましたが、分家筋の4代藩主新庄直時が再び麻生藩を立藩して6代藩主となり、明治時代まで新庄氏が統治しました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治4年(1871年)の廃藩置県により麻生県から新治県の管轄を経て、明治8年(1875年)に茨城県の管轄となりました。平成17年(2005年)には麻生町、北浦町、玉造町が合併して行方市が発足しています。