歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

豊城入彦命と宇都宮氏

栃木県宇都宮市の二荒山神社

東国支配を確立するために派遣された豊城入彦命は、宇都宮を本拠として衣食住など生活に必要な産業を推奨して上毛野と下毛野の始祖となりました。豊城入彦命の四世孫・奈良別王は豊城入彦命の威徳を称えて二荒山神社を創建し、二荒山神社の社務職を務めた一族が宇都宮氏を名乗り宇都宮一帯を支配しました。

豊城入彦命の東国支配

第十代崇神天皇の皇子である豊城入彦命は、崇神天皇48年に東国支配を確立するため毛野国に派遣されました。豊城入彦命は池辺郷と呼ばれた宇都宮を本拠として、池や沼が広がる地を開拓して衣食住など生活に必要な産業を推奨し、上毛野と下毛野の始祖となりました。

二荒山神社と宇都宮

4~5世紀に豊城入彦命の四世孫・奈良別王が下毛野国の国造に任ぜられると、豊城入彦命の偉業を偲んで豊城入彦命を荒尾崎(下之宮)に祀りました。承和5年(838年)に現在の臼ケ峰に遷座され、やがて下野国一之宮とされたことでイチノミヤが転じて宇都宮の地名が生まれたとされます。

栃木県宇都宮市の二荒山神社

二荒山神社

4~5世紀に豊城入彦命の四世孫・奈良別王が豊城入彦命の偉業を偲び二荒山神社が創建すると、二荒山神社の門前町として栄えました。

宇都宮氏の統治

康平6年(1063年)に宇都宮社務職に就いた藤原宗円は、宇都宮の政治と宗教を掌握する存在となりました。藤原宗円は二荒山神社の社号である宇都宮を姓として宇都宮氏を名乗るようになり、宇都宮城を居城として統治を進めました。二荒山神社の社務職は宇都宮城主が務めることとなり、宇都宮の町は二荒山神社の門前町として発展しました。

宇都宮氏の繁栄

藤原宗円は鎌倉幕府の中枢で重職を務め、独自の和歌集を作るなど文武に秀でていました。弘安4年(1281年)には宇都宮貞綱が大将軍として九州筑前国で元軍の防備にあたり、弘安6年(1283年)に宇都宮景綱が宇都宮弘安式条を制定して在地支配を強化しています。

宇都宮の町の荒廃

宇都宮公綱は、鎌倉時代後期の元弘3年(1333年)に楠木正成と戦い、楠木正成から坂東一の弓取りと評されました。足利尊氏と弟の足利直義が対立すると、宇都宮氏綱は足利尊氏に与して正平元年/応安元年(1368年)に関東管領上杉憲顕から宇都宮城が攻められました。このあとも享徳4年(1455年)に宇都宮等綱が古河公方足利成氏に敗れて宇都宮城を開城し、大永6年(1526年)に宇都宮忠綱が芳賀興綱に宇都宮城を奪われ、天文18年(1549年)に壬生綱雄に宇都宮城が占拠されるなど、度重なる戦いで宇都宮の町は荒廃しました。

戦乱と宇都宮氏の衰退

宇都宮氏は常陸国佐竹氏と同盟を結び、甲斐武田氏や関東一円を支配する北条氏らの侵攻を防ぎました。宇都宮城は天正12年(1584年)に北条氏直に攻められ、天正14年(1586年)にも皆川広照、壬生義雄が攻めて城下町に放火したため、宇都宮国綱は拠点を一時的に多気城に移しました。

宇都宮氏の滅亡

天正18年(1590年)に豊臣秀吉による小田原征伐では豊臣秀吉が宇都宮城に滞在して良好な関係を築き、天正20年(1592年)に宇都宮国綱が秀吉の命により朝鮮に出兵しましたが、慶長2年(1597年)に宇都宮国綱は突然改易されて宇都宮氏の統治が終わりました。