譜代大名が治めた宇都宮藩

日光街道と奥州街道が設けられた北関東の交通の要衝である宇都宮は、日光東照宮を参拝する将軍の宿泊所や参勤交代で訪れる大名の宿場町として栄えました。宇都宮城の城主は幕府が譜代大名の中から任命したため、幕末まで多くの家柄が藩主となりました。
宇都宮氏の改易
慶長2年(1597年)に宇都宮国綱が豊臣秀吉から改易されると、浅野長政が城代として置かれたあと、慶長3年(1598年)に蒲生秀行に与えられました。蒲生秀行は近江日野の商人を御用商人として商業の発展を促しました。関ヶ原の戦いの功で蒲生秀行が会津藩主に復帰すると、慶長6年(1601年)から奥平家昌が宇都宮城主となり、商業の発展に努めました。
本多正純と城下町の整備
慶長8年(1603年)に江戸幕府が成立すると、元和5年(1619年)に東北地方の上杉氏や伊達氏を抑える軍事的な重要拠点として徳川家康の側近である本多正純が入りました。本多正純は領内検地を行い、宇都宮城を大改修して現在の市街地の基礎となる城下町、門前町、宿場町を再編しました。近代城郭として整備された宇都宮城は関東七名城の一つとして称えられ、参勤交代や日光東照宮の参拝客などの宿場町として賑わいました。
釣天井事件
元和8年(1622年)、本多正純は2代将軍徳川秀忠が日光東照宮を参拝した帰りに宇都宮城を訪れた際、宇都宮城に釣天井を仕掛けて圧死させしようとした嫌疑により本多氏は改易され、本多正純は流罪となりました。この話はのちの創作のようで、改易の理由は幕府内における権力争いと考えられています。
奥平氏による統治
元和8年(1622年)に本多正純が改易されて奥平忠昌が入りました。宇都宮城は将軍の日光東照宮参拝宿としての役割があり、参勤交代で宿泊する大名も多いことから宿場町として大変栄えて宇陽とも呼ばれました。
浄瑠璃坂の仇討
宇都宮城主の奥平忠昌が亡くなり下野興禅寺で法要が行われると、奥平家庶流の奥平内蔵允と奥平隼人が口論の末に斬り合いました。奥平内蔵允は切腹となり奥平隼人は藩外追放となりましたが、喧嘩両成敗ではない処分に異を唱えた奥平内蔵允の子・奥平源八は、寛文12年(1672年)に江戸の浄瑠璃坂で仇討を果たしました。
奥平松平氏の支配
寛文8年(1668年)に奥平家に代わり松平忠弘が藩主となると、江戸の商人である加藤四郎兵衛ら4人の願いを取り上げ、寛文10年(1670年)に西原・宝木十カ新田の開発を始めました。奥平松平家以降は、本多氏、第3次奥平氏、阿部氏、第1次戸田氏、松平氏を経て戸田氏で幕末を迎えます。
籾摺騒動
宇都宮藩主・松平忠祇は、相次ぐ自然災害による財政難を理由に上納米を五合摺から六合摺に改めました。これに反発した百姓たちは、宝暦3年(1753年)に豪商の屋敷などを打ち壊す籾摺騒動と呼ばれる一揆を起しました。
蒲生君平
宇都宮で生まれた寛政の三奇人のひとり蒲生君平は、寛政8年(1796年)から荒廃した天皇陵を調査して前方後円墳という名称を初めて使いました。蒲生君平は文化12年(1815年)に設立された藩校修道館、潔身館の設立に参画し、蒲生君平が文化8年(1808年)に著した山稜志に基づき、文久2年(1862年)に宇都宮藩主戸田忠恕が山陵修理を行いました。

鈴木源之丞の供養塔
年貢負担の軽減を求めた籾摺騒動は藩により鎮圧され、責任者である鈴木源之丞をはじめとする数名が処刑されました。
戊辰戦争と宇都宮城
幕末に戊辰戦争が起こると、慶応4年(1868年)に宇都宮城には大鳥圭介ら旧幕府軍が宇都宮城を攻略して入城しました。やがて体制を建て直した官軍は宇都宮を攻め、宇都宮城から出撃した旧幕府軍と激しい戦いとなりました。宇都宮の町は焼かれて宇都宮城内の建築物は焼失し、新政府軍に奪還された宇都宮城は会津戦争の拠点となりました。