桐生市

桐生市は群馬県の東南部に位置し、西は赤城山まで達しています。全国的に珍しく市域が他の自治体で分断しています。市域を渡良瀬川と桐生川が貫流し水と緑に恵まれています。8月には桐生八木節まつりが開催されています。
概要
- 面積
- 274.45km2
- 人口
- 103,938人(2022年2月1日)
- 市の木
- モクセイ
- 市の花
- サルビア
- 市のシンボル
- 桐
- 地図
歴史
桐生市は古くから織物のまちとして発展しました。奈良時代に朝廷に献上していた絹織物は桐生織として発展し、江戸時代には西の西陣、東の桐生と称されて桐生の絹織物は各地に流通しました。明治時代に絹織物産業の近代化が図られつつも、桐生織の7つの技法は今も途絶えることなく受け継がれています。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
桐生の歴史は古く武井遺跡から旧石器時代の槍先形尖頭器などが多数発見されています。縄文時代前期には渡良瀬川や桐生川などに近い台地上で生活を始め、千網谷戸遺跡からは耳飾りが出土しています。稲作農耕が伝えられますが、わずかな平地や斜面などを利用して水田耕作が行われました。
古墳時代、飛鳥時代
大きな前方後円墳などの古墳は造営されず、6世紀から7世紀にかけて小さな円墳や方墳が造営されました。長者塚古墳に造営された精緻な截石切組積石室は仏教文化の影響が指摘されています。新里では新川臣という豪族が現れました。

中塚古墳
丘陵性台地東斜面に造られた7世紀の方墳で、横穴式の両袖型石室で羨門と玄門を備えています。山上碑に記されている新川臣の墳墓と推定されています。
奈良時代、平安時代
奈良時代のはじめには絹織物の産地として知られ、和銅7年(714年)に絹織物が朝廷に献上されました。桓武天皇の時代には白瀧という美しい姫が養蚕や製糸、機織の技術を伝えて桐生織が始められた伝承があります。平安時代前期には製鉄から鉄製品の製造を行う製鉄炉や工房が設けられました。治承4年(1180年)に桐生六郎は足利忠綱に従い平家方として宇治川で源頼政と戦いましたが、養和元年(1181年)に足利俊綱を殺害して御家人への取立てを申し出た行為が源頼朝から不興を買い断罪に処されました。

武井廃寺塔跡
古代の寺院の跡とされ、塔の心礎である円錐状の加工石が発見されています。敷地内から発見された八角形三段の石積の墳丘は、奈良時代の火葬墳墓と考えられています。
鎌倉時代、南北朝時代
園田氏や山上氏などの武士が治めるようになり、建久3年(1192年)に須永御厨が成立しました。正平5年(1350年)に桐生国綱が柄杓山城を築城しました。

山上城跡
鎌倉時代に藤原秀郷の子孫である山上五郎高綱が築城し、東上州の中で重要視された城でした。戦国時代末期に武田勝頼に攻められたのち廃城となりました。
室町時代、安土桃山時代
関東管領上杉氏の支配下として横瀬(由良)氏、園田氏、桐生氏、山上氏が支配しました。戦国時代に後北条氏、上杉氏、武田氏の争乱の舞台となりました。山上氏は没落していき、元亀4年(1573年)に由良成繁が桐生氏を滅ぼして柄杓山城に入りました。天下統一を目指す豊臣秀吉が小田原征伐で後北条氏を滅ぼすと、天正18年(1590年)に徳川家康が関東に入部して由良国繁が牛久に遷されました。
江戸時代
徳川家康は桐生領に大久保長安を代官として派遣して町の整備が進められました。寛文元年(1661年)に桐生領が館林藩領となり、寛文12年(1672年)に岡登景能が岡登用水堀を開削しました。享保7年(1722年)に三井呉服店が絹買継店を設置し、元文3年(1738年)に西陣織物師弥兵衛・吉兵衛が桐生新町へ高機を伝え、織物のまちとして発展して西の西陣、東の桐生と称されました。

彦部氏屋敷
永禄年間に桐生に移住した彦部氏の屋敷で、南東北の三方に土塁を巡らせる屋敷構えです。群馬県内に残されている屋敷構えのなかで最も保存状態が良いとされます。
明治時代、大正時代、昭和時代
慶応4年(1868年)に岩鼻県の管轄となり、明治4年(1871年)に群馬県の管轄になりました。明治5年(1872年)に栃木県の管轄に変更とされますが、明治9年(1876年)に再び群馬県の管轄に戻されました。明治29年(1896年)に桐生織物学校が開校し、大正5年(1916年)に桐生高等染織学校が開校しました。大正10年(1921年)に桐生市が誕生しますが、昭和22年(1947年)からカスリーン台風、アイオン台風、キティ台風と大きな被害を受けました。
赤城山
赤城山は群馬県の中央部に位置する黒檜山や駒ヶ岳などの総称で、榛名山、妙義山とともに上毛三山に数えられています。かつては富士山並みの山でしたが、火山活動により広い裾野が残されています。赤城山はカルデラ地形を形成し、麓には大沼と小沼が生まれました。
- 山行日
- 2007/05/12
- 天 候
- 晴れ
- ルート
- 大洞(09:00)~駒ヶ岳(09:40)~黒檜山(10:35)、黒檜山(11:30)~北登山口(12:20)~大洞(12:50)
- 地 図
- 山と高原地図「赤城・皇海・筑波」
- 同行者
- ひめ
- 標 高
- 黒檜山(1827.6m)、駒ヶ岳(1685m)

赤城山稜線
鉄階段がある登山道を進んでいくと稜線に出ます。稜線は視界が開けた歩きやすい道で、駒ヶ岳に向かう稜線では、長七郎山と小沼を背景に進むことになります。

駒ヶ岳
駒ヶ岳から黒檜山までは笹が多くなりますが、展望が良く歩きやすい道で、遠くは富士山を眺めることができます。

大沼
駒ヶ岳から黒檜山の稜線に至るところでは、大沼の全景を眺めることができます。遠くには雪化粧した谷川連峰や苗場、武尊方面の山並みを眺めることができます。

黒檜山
黒檜山から登山道までは岩場が多い急坂ですが、こちらの方が変化があり楽しいです。黒檜山には黒檜大明神が祀られています。
