伊勢崎市

伊勢崎市は群馬県の南東部に位置し、起伏の少ない平坦な地形をしています。赤城山麓の南面に位置し、南部には利根川が流れています。地元のソウルフードとして親しまれるユニークなB級グルメが多いことでも知られます。
概要
- 面積
- 139.44km2
- 人口
- 211,003人(2022年2月1日)
- 市の木
- マツ
- 市の花
- ツツジ(春)、サルビア(夏)、キク(秋)、スイセン(冬)
- 地図
歴史
戦国時代に由良氏が伊勢神宮を勧請したことから、伊勢の前が転じて伊勢崎市の地名が生まれたとされます。古くから養蚕と織物業が盛んな地域で、明治時代に考案された伊勢崎銘仙は最盛期に全国の銘仙の3分の1を占め、伊勢崎は桐生、秩父などと並ぶ銘仙の五大産地となりました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
伊勢崎市の歴史は古く、波志江権現山遺跡などで旧石器時代の石器が出土しています。赤城山南麓の斜面などの伊勢山遺跡などからは土器片が見つかりました。縄文時代後期になると平坦な微高地に集落は移り、弥生時代には中組遺跡など広瀬川の北側の微高地に集落を形成しました。
古墳時代、飛鳥時代
古墳時代の遺跡は、間之山遺跡など赤城山南麓の扇状地形を侵食する小河川の縁辺に遺跡が多くなります。華蔵寺裏山古墳や地蔵山古墳などが造営され、5世紀前半に造営された前方後円墳のお富士山古墳からは長持型石棺が見つかります。
奈良時代、平安時代
伊勢崎市のあたりは、広瀬川が侵食して露出した崖の関東ローム層の赤土の様子から赤石と呼ばれていました。仏教の伝来により古墳から寺院建立へと変わり、7世紀後半に上植木廃寺が建立されました。平将門の乱を鎮定した俵藤太(藤原秀郷)の一族が淵名荘を成立させて淵名氏を名乗るなど荘園が多く開かれましたが、天仁元年(1108年)の浅間山の爆発で大きな被害を受け、水田の多くが復旧されることなく放棄されました。

十三宝塚遺跡
奈良・平安時代の寺院跡で、回廊状遺構に囲まれた中に仏殿や塔が建立されていたことがわかり、仏像の破片や上野国分寺創建瓦と同じ瓦、奈良三彩陶器などの遺物も数多く発見されました。

上野国佐位郡正倉跡
7世紀後半から10世紀前半に使われていた佐位郡の米を貯蔵する倉庫群で、礎石建物15棟、掘立柱建物40棟以上の倉庫群が検出されました。
鎌倉時代、南北朝時代
地方武士団として新田一族や那波氏、淵名氏が市域を支配しました。建仁2年(1202年)に長楽寺を開山した栄朝禅師が三ツ橋で貧しい夫婦に会い、麻疹で苦しむ夫婦の子を祈祷で治した伝説が残ります。新田一族の新田義貞は鎌倉幕府を滅亡に追い込みましたが、南北朝の争乱で新田義貞が戦死して新田氏は影響力を失いました。
室町時代、安土桃山時代
鎌倉幕府が滅亡して関東管領上杉氏が守護職を務め、守護代として長尾氏が支配ました。在地領主や武士たちは信仰や供養のための石造物を盛んにつくりました。永禄8年(1565年)に由良成繁が伊勢神宮に土地を寄進して伊勢宮を建立し、伊勢の前が転じて伊勢崎市の名前の由来となりました。やがて上杉氏や後北条氏、武田氏が覇権を争いましたが、豊臣秀吉が後北条氏を滅ぼして徳川家康が関東地方に入部して支配しました。
江戸時代
関ヶ原の戦いを経て、慶長6年(1601年)に稲垣長茂が伊勢崎藩主となり、伊勢崎城を藩庁として使用しました。寛永14年(1637年)に厩橋藩領から分割されて酒井忠能が伊勢崎藩主となりました。寛文2年(1662年)に伊勢崎河岸ができ、安永3年(1774年)に伊勢崎藩校の学習堂が創設されました。養蚕のくず繭などを利用した太織の生産は、縞柄の伊勢崎縞として商品化されました。

金井烏洲と一族の墓
江戸後期の南画家である金井烏洲と父で俳人の金井万古、詩人で兄の金井莎邨、南画家の弟の金井研香ら一族の墓が並んでいます。昭和4年(1929年)に建立した金井烏洲副碑もあります。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治13年(1880年)に伊勢崎太織会社が設立されて太織は銘泉へと進化しました。伊勢崎銘仙は大衆着として人気となり高機の導入などの技術革新で生産が盛んになりましたが、生活様式の欧米化により和装から洋装へと変化して生産量が減少していきました。昭和20年(1945年)の空襲や昭和22年(1947年)のカスリーン台風による大規模な水害に見舞われましたが、高度経済成長期で大規模な工業団地が造営され、昭和51年(1976年)に伊勢崎オートレース場が開設されるなど活気を取り戻し、北関東有数の工業地帯として発展を続けています。

田島弥平旧宅
田島弥平は近代養蚕法である清涼育を開発しました。有力な蚕種製造農家の田島弥平旧宅は、ヤグラ付き総二階建ての近代養蚕農家建築の原点となりました。
