歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

藤岡市

群馬県藤岡市の平河川公園

藤岡市は群馬県の南西部に位置し、南西に主要山岳があり標高が高く、北東に行くに従い平野部が広がる地勢をしています。西部に赤久縄山と御荷鉾山があり、最南部に神流湖があり神流川や鮎川が貫流します。山や清流に恵まれてシンビジウム(洋ラン)は全国有数の産地となりました。

概要

面積
180.29km2
人口
62,313人(2022年2月1日)
市の木
クスノキ、モクセイ
市の花
フジ、サルビア
地図

歴史

室町時代に関東管領上杉氏の居館が置かれました。江戸時代に中山道の脇往還である下仁田街道と十石街道が交差する宿場町として発展し、藤岡宿として賑わいました。藤岡で製造された藤岡絹や日野絹は全国で知られるようになりました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

三ツ木東原B遺跡で利根川流域の黒色安山岩を石材とする尖頭形剥片などが製造されました。縄文時代に譲原石器時代住居跡などで定住するようになり、弥生時代には遺跡は多くないものの沖Ⅱ遺跡などに再葬墓群が造営されています。

群馬県藤岡市の譲原石器時代住居跡

譲原石器時代住居跡

縄文時代後期から晩期初頭の敷石住居跡で、体験学習館(MAG)の隣にある覆屋で発見当時のまま保存されています。中央の炉跡は4個の結晶片岩で囲まれ、周囲を粘土で固めています。

群馬県藤岡市の中大塚縄文時代敷石遺構

中大塚縄文時代敷石遺構

縄文時代中期に造られた敷石住居で、柄の付いた手鏡の形をしていることから柄鏡形敷石住居と呼ばれています。付近には同様な敷石住居が2箇所確認されており、集落が営まれていました。

古墳時代、飛鳥時代

1500基以上の古墳が造営され、5世紀後半からは鮎川と鏑川に挟まれた段丘に広がる白石古墳群が造営されています。藤岡市域は本郷埴輪窯跡などの存在から古代の東国文化の中心地のひとつと考えられています。

群馬県藤岡市の白石稲荷山古墳

白石稲荷山古墳

5世紀前半に造営された東日本を代表する大型の前方後円墳です。陪塚にあたる十二天塚古墳と十二天塚北古墳ともに一括して国の史跡に指定されてます。

群馬県藤岡市の本郷埴輪窯跡

本郷埴輪窯跡

5世紀後半から6世紀末まで操業していた埴輪を生産した窯跡です。太田地域と藤岡地域が一大生産地として知られ、神流川流域の本郷埴輪窯址と鮎川流域の猿田埴輪窯跡があります。

群馬県藤岡市の七輿山古墳

七輿山古墳

6世紀前半に造営された三段築成の前方後円墳で、6世紀の古墳としては東日本最大級の規模です。大型の円筒埴輪、朝顔形埴輪や人物・馬などの形象埴輪類が見つかりました。

群馬県藤岡市の皇子塚古墳

皇子塚古墳

6世紀後半に造営された高さ6メートルの円墳です。両袖型の横穴式石室が古くから開口していましたが、現在は入口を塞いでいるため見学できません。

群馬県藤岡市の伊勢塚古墳

伊勢塚古墳

6世紀末に造営された古墳で、墳丘は4段に造られています。円墳あるいは不正八角形墳と考えられ、模様積石室と呼ばれるあちこちに大型の自然石を配した石室があることが特徴です。

群馬県藤岡市の平井地区1号古墳

平井地区1号古墳

6世紀末に造営された高さ4メートルの二段に造られた円墳です。石室から出土した装飾付大刀をはじめとする多数の副葬品や墳丘から出土した埴輪は国の重要文化財に指定されています。

奈良時代、平安時代

律令体制が整備されて緑野郡が置かれました。天承元年(1131年)に東国を支配した源義朝が伊勢神宮に寄進し、高山御厨が成立して高山氏が統治しました。高山氏は木曽義仲や源頼朝に従軍しています。

鎌倉時代、南北朝時代

文永11年(1274年)に日蓮上人が佐渡から鎌倉に戻る途中で富士山の分霊を勧請して富士岡を創建し、この富士岡が転じて藤岡の地名が生まれました。元弘3年(1333年)の鎌倉攻めで高山重栄は新田十六騎に数えられました。

室町時代、安土桃山時代

鎌倉公方・足利持氏と関係を悪くした関東管領・上杉憲実は、永享10年(1438年)に平井城を築いて鎌倉山内館からと移り居城としました。足利持氏は平井城を攻めますが、将軍・足利義教は足利持氏討伐軍を派遣して永享の乱となりました。北条氏康に攻められた上杉憲政は越後に逃れ、天文21年(1552年)に要請を受けた長尾景虎は三国峠を越えて上野国に進出し平井城を奪還しますが、厩橋城を関東進出の拠点としたので平井城は廃城となりました。

藤岡藩の成立と廃止

武田信玄が侵攻して家臣の依田信守が居住するようになりました。依田信守は武田氏滅亡後に徳川家康に仕え、徳川家康が関東に入部すると、依田康貞が藤岡藩を立藩して藩主となりました。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに参戦した依田康貞は、碁が原因で旗本・小栗三助を殺害したことで藤岡藩は廃藩となりました。

群馬県藤岡市の平井城・金山城跡

平井城・金山城跡

永享10年(1438年)に関東管領・上杉憲実の命で長尾忠房が築城しました。山内上杉家の居城となりますが、永禄3年(1560年)に厩橋城(前橋城)が関東の拠点となり廃城となりました。

江戸時代

農家の副業として養蚕、製糸、織物が一貫して行われ、藤岡絹や日野絹と呼ばれました。十石峠街道と信州姫街道が分岐する藤岡宿は絹の集積地となり、十二斎市が開催されたことで諸国の呉服問屋が絹の買い付けなどを行う絹宿となりました。

明治時代、大正時代、昭和時代

高山御厨を管理した高山氏の子孫である高山長五郎は、屋敷を蚕室に改良して清温育という飼育方法を確立しました。高山長五郎は自宅に養蚕改良高山社を設立して社長に就任し技術を全国に広めました。昭和29年(1954年)に藤岡市が誕生しました。

群馬県藤岡市の高山社跡

高山社跡

養蚕改良高山社を創始した高山長五郎で生家で、養蚕法である清温育の研究と指導が行われました。明治20年(1887年)に事務所と伝習所は移されて、高山分教場として指導が続けられました。

群馬県藤岡市の三波川(サクラ)

三波川(サクラ)

明治41年(1908年)に国有地の山林を三波川村が買い取り、桜山公園として公園化しました。1000本ものソメイヨシノを植えたところ、11月に突然開花しました。