甘楽郡

甘楽郡は群馬県の南西部に位置し、南部の稲含山から北部の平坦地にかけて傾斜しています。西から東に鏑川が流れ、丘陵地は蚕桑の栽培適地として養蚕業を支えました。古くから下仁田ネギやコンニャク栽培、養蚕などが盛んで、近年は野菜やキウイフルーツなどの果実の生産が増加しています。
概要
- 面積
- 365.82km2
- 人口
- 20,071人(2022年2月1日)
- 含む町村
- 下仁田町、南牧村、甘楽町
- 地図
歴史
砥沢の砥石で知られる甘楽郡は全国でも有数の砥石産地であり、古くから石材を採取・加工した人びとが生活しました。鎌倉時代に本格的な採掘が始められた砥沢の砥石は、江戸時代には幕府に献上されるようになり、下仁田宿などの宿場町はその集積地として繁栄しました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
石材の産地であることから石材を採取・加工した跡が残ります。下鎌田遺跡や杣瀬遺跡などは旧石器時代から人の営みが残され、米山遺跡からは縄文時代前期から中期の集落遺跡跡が見つかりました。弥生時代の只川橋下弥生岩陰墓地から弥生時代後期の埋葬人骨などが見つかりました。

蝉の渓谷
南牧川に架かる蝉橋周辺は蝉の渓谷と呼ばれています。安永2年(1773)に金沢の俳人闌更が「閑さや 岩にしみいる 蝉の声」と刻まれた芭蕉の句碑を建立しています。

線ヶ滝
星尾地区にある南牧三名瀑のひとつで、落差は35メートルあります。荒船山に源を発する水は、灰色の岩壁を滑るように白い一条の直線を描いて落下しています。
古墳時代、飛鳥時代
現存する古墳のほとんどが古墳時代中期から末期に造営されたもので、前方後円墳は笹森古墳と5世紀前半の天王塚古墳のみです。

笹森古墳
6世紀後半頃に造営されたと考えられる前方後円墳です。鏑川流域では最大の規模をもち、この時期のものとしては県内最大級です。くびれ部には笹森稲荷神社が鎮座しています。
奈良時代、平安時代
奈良時代の僧・行基が自ら謹刻した不動明王像を安置して黒瀧山不動寺が創建し、西上州三大不動のひとつとして山岳信仰の霊場となりました。
鎌倉時代、南北朝時代
児玉党の一党である小幡平太郎が小幡の地に居住し勢力を確立したとされます。
室町時代、安土桃山時代
関東管領上杉氏の支配下で、上州八家のひとつとされる小幡氏と白倉氏が支配したとされます。天文21年(1552年)に上杉憲政が北条氏に追われると、小幡氏は武田信玄の配下となり赤備の編成を許されています。武田氏が滅亡すると織田信長配下の滝川一益が統治し、本能寺の変のあとに後北条氏が支配しました。天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原征伐により後北条氏が滅亡すると、慶長6年(1601年)まで奥平信昌の領地となりました。
江戸時代
慶長7年(1602年)から水野忠清が領したあと、元和元年(1615年)に織田信雄が小幡を拝領して小幡藩を立藩し、明和4年(1767年)に小幡藩主の松平氏が入りました。中山道の脇往還である信州道は下仁田道とも呼ばれ、宿場下仁田は西牧関所が設けられて特産品の砥沢の砥石などの物資の集積地となりました。元治元年(1864年)に筑波山で挙兵した水戸天狗党と高崎藩が戦う下仁田戦争が起こりました。

楽山園
江戸時代初期に織田信長の次男・織田信雄が築造した小幡藩邸の庭園です。群馬県唯一の大名庭園は池泉回遊式の借景庭園で、複数の茶屋を設けて庭園と茶事を巧みに演出しています。

高橋道斉の墓
高橋道斎は江戸時代中期の漢学者・俳人・書家です。日本三古碑の一つ多胡碑の歴史的・書的価値を見出し広く世に紹介したことで多胡碑研究の出発点となりました。

旧小幡藩武家屋敷松浦氏屋敷
松平氏の入部とともに当地に住んだ松浦氏の屋敷で、楽山園の約300メートル南にあります。18世紀末から19世紀初頭に築造され、屋敷とともに庭園を設けています。

造石法華経供養遺跡
釈迦堂・地蔵堂を中心に石造地蔵菩薩・石造宝塔・石灯籠、絵馬など法華経、法華経の読経、写経に関連した大規模な遺跡です。造石地蔵菩薩は背面左側に元和9年(1623年)の銘があります。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治4年(1871年)の廃藩置県により岩鼻県から群馬県となり、明治6年(1873年)に熊谷県に変更されたのち、明治9年(1876年)に再び群馬県に編入されました。 明治7年(1874年)に中小坂鉄山で洋式高炉による製鉄が始まりました。明治20年(1887年)に神津邦太郎が我が国で初めてとなる洋式牧場を設立しました。

荒船・東谷風穴蚕種貯蔵所跡
明治38年(1905年)に操業を始めた蚕の卵を冷蔵保存する施設です。かつて木造3階建ての建物が3棟あり、電気の無い時代に天然の冷風を利用して低い温度と高い湿度を保ちました。
修験道の霊山・荒船山
荒船山は群馬県下仁田町と長野県佐久市にまたがり、妙義荒船佐久高原国定公園に属します。山容が荒波を進む巨大船に見えることから荒船山と名付けられました。上部が平らな地形をしているため、日本のテーブルマウンテンとも呼ばれます。日本二百名山に選定されています。
- 山行日
- 2010/08/07
- 天 候
- 晴れ
- ルート
- 内山峠(09:00)~艫岩(10:15)~経塚山(10:50)~艫岩(11:30)~内山峠(13:00)
- 地 図
- 山と高原地図「西上州 妙義山・荒船山」
- 同行者
- ひめ
- 標 高
- 荒船山(1423m)

荒船山
荒波を進む巨大船のような山容をしています。荒船山は大規模な噴火活動で形成した本宿カルデラの一部で、浸食で固い部分が残り山頂付近が平らな形状となりました。

鋏岩修験道場跡
荒船山の水はどんな日照りでも枯れることがなく、古くから水を司る山として信仰されました。鋏岩修験道場跡には修験者の修行場として道場が建てられていました。

荒船山艫岩
断崖絶壁の絶景ポイントではありますが、平成21年(2009年)にクレヨンしんちゃんの作者・臼井氏が転落事故を起こしたことでも知られています。

皇朝最古修武之地
関東に勢力を広げようとした建御名方神を迎え撃つため、経津主大神と建御雷男神が陣を構えた伝説があります。天照大神は戦いを回避するため、瓊瓊杵尊を遣わして和議が結ばれました。

荒船山山頂
艫岩から皇朝最古修武之地などの広い平坦なところを歩き、最後の急登を越えれば山頂に到着します。山頂には祠があるだけで展望はほぼありません。
