川越市

川越市は、関東平野の西部で武蔵野台地の東北端に位置します。江戸時代の面影を残すため小江戸の愛称で親しまれます。交通の要衝にある商都として独自の文化と景観を築き上げていき、観光産業のほか農業・工業・商業ともに県内上位に入るバランスの取れた街になりました。
概要
- 面積
- 109.13km2
- 人口
- 355,044人(2021年11月1日)
- 市の木
- カシ
- 市の花
- ヤマブキ
- 市の鳥
- 雁
- 市の日
- 12月1日
- 市の歌
- われらの川越
- 地図
歴史
太田道真・道灌父子が河越城を築城してから城下町が形成するようになりました。江戸時代に大規模な改修で城郭と城下町が強化され、江戸へ物資を供給する新河岸川の舟運の拠点として農産物や特産品の集散地となり、河岸場が開設されて河岸問屋が成立しました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
武蔵野台地を中心に人が生活した痕跡が残され、旧石器時代の在家遺跡や鶴ケ丘遺跡が見つかりました。縄文時代には寺尾貝塚や弁天南遺跡などが造営され、老袋から丸木舟が出土しています。弥生時代には登戸遺跡や有泉遺跡などが造営されています。
古墳時代、飛鳥時代
三変稲荷神社古墳や愛宕神社古墳など大型の古墳がつくられ、それぞれ古墳群を形成しました。川越地方を治めるために建造された評家は、律令体制で入間郡衙として発展しました。

川越氷川神社
欽明天皇2年(541年)に創建したとされます。太田道真・道灌父子が築城した川越城の守護神・領内の総鎮守として篤く崇敬されました。

山王塚古墳
入間川を望む台地に立地する7世紀後半の日本最大の上円下方墳で、被葬者は古代入間郡域における枢要な地位の人物と推定されています。
奈良時代、平安時代
神護景雲元年(767年)に人丈部直不破麻呂が武蔵宿禰を賜り武蔵国造に任じられたとされ、南北に縦断する東山道武蔵路が建設されて交通の要衝となりました。天長7年(830年)に慈覚大師円仁が無量寿寺を創建しました。平安時代後期には桓武平氏・秩父氏の流れをくむ河越氏が上戸に居館を構えて地盤を固めました。
鎌倉時代、南北朝時代
河越重頼の息女が源義経の正室に迎えられていたため、文治元年(1185年)に源義経の離反により河越重頼の所領没収されましたが、文治3年(1187年)に旧領が安堵されました。河越氏は鎌倉幕府の御家人として重用され、河越重員が武蔵国留守所総検校職に任じられました。
室町時代、安土桃山時代
応安元年/正平23年(1368年)に河越氏らが武蔵平一揆を起こし、犬懸上杉氏は鎌倉公方を擁してこれを鎮圧して河越氏は伊勢国に敗走しました。長禄元年(1457年)に扇谷上杉持朝の家臣である太田道真・道灌父子が河越城を築きました。後北条氏が支配すると家臣団が城下に集住して初期の河越城下町が形成しました。
河越夜戦
扇谷上杉氏と山内上杉氏が対立して関東の情勢が不安定になると、この隙を突いて後北条氏が河越城などを攻略して勢力を広げました。天正15年(1546年)に山内上杉憲政と扇谷上杉朝定ら連合軍は後北条氏が籠る河越城を攻めましたが、北条氏康は夜襲をしかけてこれを壊滅させました。この河越夜襲は日本三大奇襲と称されています。

暦応の古碑
暦応5年(1342年)に建立された板碑で、仏蔵院二世の寛海法印と心聡法印が中心となり先師の追善と自らの逆修のため建てられました。

河越館跡
平安時代末期から室町時代前期にかけて支配した河越氏の居館跡で、武蔵平一揆で河越氏は没落して河越館に関する記録も歴史の表舞台から消えていきました。

大堀山館跡
築造年代・築造者・城主とも明らかではありませんが、15世紀中葉以降の遺構が検出されており、山内・扇谷の両上杉氏の争乱に関係する城館跡とされています。
江戸時代
天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐で、前田利家の軍勢に攻められて河越城が陥落しました。後北条氏が滅亡して徳川家康が関東に入部すると、江戸幕府の成立により河越藩が立藩し、大老や老中などを歴任する親藩や譜代大名が藩主を務めました。寛永15年(1638年)の河越大火で大きな被害を受けると、藩主の松平信綱が河越城と城下町の大規模な整備を行いました。城下町は大きく繁栄して新河岸川による舟運で農産物や特産品の集散地となり、河岸場が開設されて河岸問屋が成立しました。

河越城跡
長禄元年(1457年)に太田道真・道灌父子が築いた城で、寛永16年(1639年)に川越藩主・松平信綱が近代城郭に大改修しました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治4年(1871年)の廃藩置県で川越県を経て入間県となり、明治6年(1873年)の熊谷県を経て、明治9年(1876年)に埼玉県に編入されました。明治28年(1895年)の川越鉄道や大正3年(1914年)の東上鉄道の開業などで流通網が拡大しました。

蔵造りの町並み
明治26年(1893年)の川越大火で中心街の3分の1が焼失し、火事に強い蔵造りの商家が建てられ、倉敷市や喜多方市と共に日本三大蔵の街となりました。