熊谷市

熊谷市は埼玉県北部に位置し、ほぼ平坦で荒川や利根川の水に恵まれた肥沃な大地と豊かな自然環境を有しています。利根川沿いや荒川の南部は農業用地が見られ、広大な土地を利用して工業団地も造成しています。埼玉県北部の経済や文化の中心地で、熊谷染や地元産の小麦を使用した熊谷うどんなどの特産品も多くあります。
概要
- 面積
- 159.82km2
- 人口
- 192,339人(2022年2月1日)
- 市の木
- ケヤキ
- 市の花
- サクラ
- 市の鳥
- ヒバリ
- 市の魚
- ムサシトミヨ
- 地図
歴史
多くの古墳群が生まれた熊谷市域は、郡衙が置かれて地域支配の中心となりました。平安時代末期には武蔵七党を中心とした多くの武士団が現れ、一揆を形成して勢力争いを続けました。江戸時代に中山道が整備されると人の往来が活発になり、熊谷宿が宿場町として大いに賑わいました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
野原の遺跡に旧石器時代の人の営みが見られます。縄文時代には三ヶ尻、冑山、箕輪、千代などの水辺のある高台で生活しました。弥生時代には低地に移住し、県内最古の水田や灌漑施設がある北島遺跡や池上遺跡などで稲作を行いました。
古墳時代、飛鳥時代
4世紀頃から塩古墳群の前方後方墳など有力者が古墳を造営しました。6世紀中頃の中条古墳群からは短甲武人埴輪や馬形埴輪が発見され、野原古墳群からは踊る人々と名付けられた埴輪が出土しました。千代からは埴輪を焼いた窯跡が発見されています。

塩古墳群
前方後方墳2基、方墳26基、円墳8基からなる古墳時代前期を中心とする古墳群で、4世紀の中頃から後半にかけて造営されたと考えられています。

甲山古墳
江南台地東端に分布していた甲山古墳群に属する6世紀前半の円墳で、全国でも4番目の規模を有する大型の円墳です。

とうかん山古墳
6世紀後半代の市内最大の前方後円墳で、石室や副葬品は明らかではありません。周囲には周溝が巡ると見られていますが、現在は埋没しています。

宮塚古墳
7世紀末から8世紀初めの上円下方墳という珍しい形の古墳で、荒川左岸の自然堤防上に立地する広瀬古墳群の中にあります。
奈良時代、平安時代
8世紀に寺院が造営されるようになりました。寺内廃寺は伽藍設備を伴う本格的なもので、西別府廃寺からは瓦や墨書土器が発見されています。平安時代末期には武蔵七党を中心とした多くの武士団が現れ、長井荘の斎藤別当実盛は平家方に与して木曽義仲に討たれ、熊谷郷の熊谷次郎直実は一の谷の戦いで平敦盛を討つなど活躍しました。

幡羅官衙遺跡群(西別府祭祀遺跡)
7世紀後半から11世紀前半まで機能していた郡役所跡で、幅8m程の道路が北東-南西方向に走り館や正倉院などの建造物が建てられていました。
鎌倉時代、南北朝時代
熊谷氏とその血縁関係にある久下氏は、承久3年(1221年)に起きた承久の乱で活躍し、熊谷氏は安芸国三入庄、久下氏は丹波国栗作郷を与えられました。

中条氏館跡
藤原氏から出た常光は中条の地に館を構えて中条氏を名乗りました。中条家長は、鎌倉幕府評定衆として御成敗式目の制定に関わりました。
室町時代、安土桃山時代
平安後期から鎌倉時代にかけて惣領を中心とした関係が崩れ、惣領家と庶子家が独立した関係として対立するようになりました。成田氏の系譜である別符氏は久下氏らと白旗一揆を形成して、鎌倉公方に与して北朝方として関東各地を転戦しました。室町時代半ばから熊谷氏や久下氏がそれぞれ安芸国と丹波国に移り住み、成田氏が勢力を伸ばしました。

別府氏墓
平安時代末期に成田行隆が別府氏を名乗り、別府行隆の長男・別府義行が東別府、次男の別府行助が西別府に居を構えました。

別府城跡
天正18年(1590年)の小田原征伐で別府顕清は忍城で石田三成と戦いますが、戦後に成田氏が衰退したことで別府氏も衰退して廃城となりました。
江戸時代
江戸幕府が開かれて中山道や秩父街道などが整備され、荒川や利根川を渡る渡船場がある交通の要衝となりました。秩父街道は秩父神社、三峰神社、宝登山神社の秩父三社巡りで人の往来が増え、熊谷宿は江戸と結ぶ商品流通の要所として栄え、六斎市が開かれるなど賑わいました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治4年(1871年)の廃藩置県で忍県から入間県へと変わり、明治6年(1873年)から3年間だけ熊谷県となりました。明治16年(1883年)に上野-熊谷間に鉄道が敷かれ、生糸などの多くの物資が横浜港まで運ばれました。戦争の空襲で市街地の7割以上が焼失する埼玉県最大の被害を受けたましたが、昭和57年(1982年)に上越新幹線が開通するなど復興を遂げました。