行田市

行田市は埼玉県北部に位置し、利根川と荒川の恵みを受けている穀倉地帯です。市内全域が平坦な地形をしていますが、年間を通して風水害や降雪による災害が少ないのも特徴です。東日本随一の規模を誇る埼玉古墳群、古代蓮をテーマとした古代蓮の里、映画のぼうの城で脚光を浴びた忍城跡、生産量日本一の足袋を収めた足袋蔵などが見どころです。
概要
- 面積
- 67.49km2
- 人口
- 77,533人(2022年2月1日)
- 市の木
- イチョウ
- 市の花
- キク・古代蓮
- 市の日
- 5月3日
- 市の歌
- 行田市歌
- 地図
歴史
集落の有力者が古墳を造営するようになり、東日本随一の規模を誇る埼玉古墳群を形成しました。多くの武士団が支配するようになると、忍氏を滅ぼした成田氏が忍城を拠点としました。江戸時代に忍藩が足袋作りを推奨したことで伝統工芸品となりました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
長野中学校校庭より旧石器時代の石器が採取され、縄文時代の住居跡が見つかりました。
古墳時代、飛鳥時代
5世紀末頃の稲荷山古墳を皮切りに埼玉古墳群が築かれ始めると、各地で中小の古墳が築かれました。小針遺跡や築道下遺跡、北大竹遺跡や馬場裏遺跡などの大規模集落が形成されました。

埼玉古墳群
前方後円墳8基、大型円墳2基、方墳1基と小円墳群で構成される全国屈指の古墳群で、稲荷山古墳から金錯銘鉄剣と呼ばれる115の金の文字が刻まれた鉄剣が出土しました。

真名板高山古墳
6世紀後半の前方後円墳で埋葬施設等の詳細は不明ですが、西方約4キロメートルに位置する埼玉古墳群とも時期が重なるため何らかの関係が示唆されています。

小見真観寺古墳
6世紀末から7世紀初め頃に造営された前方後円墳で、横穴式の複室の石室は秩父産の緑泥片岩による石室で巨大な石材を用いた精巧なものです。

八幡山古墳石室
7世紀前半の大型の円墳で、石舞台古墳に匹敵する巨大な石室から関東の石舞台とも呼ばれ、聖徳太子伝暦に登場する武蔵国造物部連兄磨の墓と推測する説もあります。

地蔵塚古墳
若小玉古墳群に含まれる7世紀中期の方墳で、内部の左壁や右壁、奥壁に烏帽子を被る人や弓を引く人のほか、馬や水鳥などの線刻画が描かれています。
奈良時代、平安時代
大宝元年(701年)の大宝律令で埼玉郡の一部になりました。古墳時代から続く大規模集落はその規模を維持し続けますが、大規模な開発は行われませんでした。
鎌倉時代、南北朝時代
武士の台頭により武蔵七党と呼ばれる武士団が多数存在しました。

南河原石塔婆
鎌倉時代中期の代表的な板碑で、文応2年(1261年)銘の板碑と文永2年(1265年)銘の板碑が観福寺に残されています。
室町時代、安土桃山時代
武蔵国司の藤原基忠を祖として北武蔵の一大勢力を築いた成田氏は、文明10年(1478年)頃に成田顕泰が忍一族を滅ぼして本拠としました。成田顕泰は関東管領・上杉顕定に従い後北条氏の侵攻を防ぐため忍城を強化し、成田親泰が北武蔵最大の版図を獲得して最盛期を迎えました。天文21年(1552年)に関東管領上杉憲政が没落すると、成田長泰は情勢に応じて後北条氏や上杉謙信に従属しています。
忍城の戦い
天正18年(1590年)の小田原征伐で、忍城の成田氏長は小田原城に入り、忍城は成田長親と甲斐姫が守りました。石田三成は丸墓山古墳に陣を置いて忍城を水攻めにしますが、堤防は決壊して大した成果を挙げられませんでした。小田原城が開城すると成田氏長の説得に応じて忍城は開城して成田氏は一時所領を失いましたが、甲斐姫が豊臣秀吉の側室として寵愛を受けたため、下野国烏山を与えられました。

忍城跡
広大な沼地にある島や自然堤防を利用した城です。関東七名城の一つで、石田三成の水攻めにも耐えたことで浮き城とも呼ばれます。

石田堤
石田三成が忍城を水攻めするために築いた全長28キロにも及ぶ壮大な堤防です。水攻めは決壊して大した打撃を与えることができませんでした。
江戸時代
成田氏が忍城を明け渡してから、徳川家の親藩や譜代が忍城主となり忍藩主を務めました。埼玉銘菓の十万石まんじゅうは忍藩10万石に因んでいます。桑名藩から忍藩に移封した松平忠堯は、天保7年(1836年)に桑名藩校・進脩館を忍で再興しました。北武蔵の交通の要衝として忍城の城下町は宿場町ができ、伝統工芸品である行田足袋の誕生につながります。
行田足袋
利根川と荒川の豊富な水と夏季の高温により、行田では綿や藍の栽培が盛んに行われました。藍染の綿布生産が盛んになり、享保年間(1716~35年)に忍藩主が藩士の婦女子に足袋づくりを奨励したとされ、足袋づくりが盛んになりました。

一里塚
中山道の鴻巣から館林へ向かう日光裏街道の路傍に築かれたもので、道の両側に築かれていましたが東側の塚だけが残ります。

行田足袋
忍藩が足袋作り推奨したことで盛んに生産され、天保年間(1830~44年)には27軒の足袋屋があり和装文化の足元を支えました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治4年(1871年)の廃藩置県で忍県となり、明治11年(1878年)に埼玉県となりました。昭和24年(1949年)に行田市が生まれ、下水道事業の推進で沼や湿地帯は埋め立てられました。

足袋蔵
江戸時代から製造された行田足袋を保管していた蔵で、行田の足袋産業は昭和初期に最盛期を迎えて全国生産の8割を占めました。

水城公園
忍城の名残の堀や沼が赤痢などの伝染病の温床となり、昭和39年(1964年)に下水道事業が進められなかで水城公園が整備されました。

古代蓮の里
昭和46年(1971年)に工事現場から出土した古代種の行田蓮が発芽したことを受け、平成7年(1995年)に開園した古代蓮をテーマとした公園です。

世界最大の田んぼアート
平成13年(2001年)に建造された行田タワーから見える田んぼアートは、平成27年(2015年)にギネス世界記録に認定されました。