鴻巣市

鴻巣市は埼玉県の中央部に位置する都市で、花卉栽培やひな人形の生産が盛んです。栽培面積日本一のポピー畑や日本一の川幅があり、1分あたりの尺玉以上の花火打上数日本一のこうのす花火大会、日本一高いピラミッドひな壇の鴻巣びっくりひな祭りが開催されています。
概要
- 面積
- 67.44km2
- 人口
- 116,466人(2021年12月1日)
- 市の木
- ケヤキ
- 市の花
- パンジー
- 市の色
- 群青色
- 地図
歴史
江戸時代に中山道の宿場町として鴻巣宿が整備され商業が発達しました。江戸時代中期にひな人形の生産が盛んになり関東三大ひな市と呼ばれ、明治時代には最盛期を迎えて全国に知られました。大戦後に農家が花卉栽培を始めて花のまちとなる基盤ができました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
新屋敷遺跡など6か所で旧石器時代の遺跡が残されています。縄文時代には阿弥陀堂遺跡や中三谷遺跡など40カ所の遺跡が残ります。弥生時代の遺跡は極端に減少して、九右衛門遺跡の壺型土器と登戸新田遺跡の方形周溝墓が見つかるのみです。
古墳時代、飛鳥時代
赤台遺跡や下閭遺跡などの集落跡が残り、箕田古墳群・馬室古墳群・生出塚古墳群などで古墳が造営されました。馬室埴輪窯跡や生出塚埴輪窯跡では大量の埴輪が生産されました。

馬室埴輪窯跡
古墳時代後期の埴輪製作関連遺跡で、埴輪窯跡のほか集落跡が見つかりました。台地の斜面を利用した本格的な登り窯で良質な埴輪を大量に焼きました。
奈良時代、平安時代
埼玉郡笠原郷を拠点とした笠原直使主が朝廷から武蔵国造を任命され、武蔵国の国府が置かれて国府の州が転じて、後にこうのとり伝説から鴻巣の字が当てられました。嵯峨天皇の皇子である源融の孫・源仕が移り住み、源仕の孫・渡辺綱は源頼光四天王として活躍しました。

伝源経基館跡
源経基は清和天皇の第6皇子・貞純親王の子で、応和元年(961年)に源氏姓を賜りました。平将門の乱では征東副将軍に任じられています。
鎌倉時代、南北朝時代
鎌倉幕府の有力御家人である安達藤九郎盛長が館を構えたほか、武蔵七党の一翼を担う武士団が活動するなど武士が地域を支配しました。
室町時代、安土桃山時代
享徳3年(1454年)に上杉憲忠が謀殺された享徳の乱で、鎌倉公方足利氏と関東管領上杉氏の争いが激しくなり、文明18年(1486年)に扇谷上杉の家宰・太田道灌が謀殺されて扇谷・山内両上杉の対立が激化すると、後北条氏が伸長して支配下に置きました。天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐で小田原城が陥落すると、徳川家康が関東に入部しました。
江戸時代
文禄2年(1593年)に徳川家康は鷹狩の休憩地として鴻巣御殿を建設しました。慶長7年(1602年)に宿場町が北本宿から移されて鴻巣宿ができ、六斎市が開かれて商業が発達しました。鴻巣宿で生まれた横田柳几は生涯を通じて旅を好み、多くの紀行文を残しています。江戸時代中期から農家の農閑期の収入獲得手段としてひな人形が作られ、鴻巣雛の名で江戸周辺に数多く出荷されました。

伊奈忠次墓
徳川家康から鴻巣に1万石を賜り初代関東郡代に任じられました。土木技術に優れて治水、灌漑、新田開発などでめざましい活躍をしました。

一里塚
慶長17年(1612年)に築造された中山道の一里塚です。一里塚は江戸日本橋から一里ごとに造られた塚で、10メートル四方の塚に榎や松が植えられました。

鴻巣東照宮
文禄2年(1593年)に将軍家が鷹狩を行う際の休泊施設として鴻巣御殿が築かれ、元禄4年(1691年)に東照宮が祀られました。

鴻巣宿問屋
鴻巣宿は忍城に至る忍道、松山に至る吉見道、私市(加須)に至る道などの分岐に位置しました。商業が発達して問屋場が置かれていました。
明治時代、大正時代、昭和時代
江戸時代に農閑期の副業として製造された雛人形は、明治時代には人形業者は30件、職人は300人いたと言われます。大正10年(1921年)に加藤政之助が武陽実業学校を創設するなど、地域の教育発展に尽力しました。戦後にパンジーの栽培などが始まり花のまちとしての基盤が築かれ、高度経済成長期に東京のベッドタウンとして宅地化が進みました。平成14年(2002年)から開催されているこうのす花火大会は、平成23年(2011年)に1分間平均で約76発の花火が打ち上げられ日本一に認定されました。

四尺玉のモニュメント
平成25年(2013年)には関東初の四尺玉の打ち上げに成功してギネス世界記録に認定されました。現在は記録が塗り替えられました。