銚子市

銚子市は、東と南を太平洋に北は利根川というように三方を水に囲まれ海に突き出た半島地形をしています。日本列島を扇にたとえると要の部分にあたる場所で、縄文時代の遺跡が多数発掘され古代から人類の活動がありました。江戸時代には水運により物流が発展し関東の三大都市と言われました。自然も豊富で銚子市全体が日本ジオパークに認定されています。
概要
- 面積
- 84.20km2
- 人口
- 56,489人(2022年2月1日)
- 市の木
- サザンカ
- 市の花
- オオマツヨイグサ
- 市の魚
- イワシ
- 地図
歴史
銚子市は千葉氏の支族である海上氏が圓福寺を保護して門前町が形成したことに始まります。江戸時代に利根川水運が発達して銚子で生産された醤油や干鰯などが江戸に運ばれ、銚子は江戸の台所と称されるようになり、明治時代初めは県内で最大の都市となりました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
狩や漁を中心とした生活が営まれており、三崎3丁目遺跡から旧石器時代の台所跡が見つかり、縄文遺跡は粟島台遺跡や余山貝塚などが多数存在します。縄文時代の遺跡からは千葉県にない黒曜石やヒスイの加工品が見つかり、各地と交易が行われていました。

屏風ケ浦
300万年前からの地層が10キロにわたり40~50メートルの断崖が続く海岸で、東洋のドーバーとも呼ばれています。
古墳時代、飛鳥時代
神武天皇の時代に天富命が天日鷲神の孫たちを従えて房総半島に移り、穀物や麻を栽培したところ麻がよく育ったことから捄の国と呼ばれました。6世紀頃に造営された前方後円墳1基、円墳8基、方墳3基からなる野尻古墳群が残されています。
奈良時代、平安時代
神亀5年(728年)に漁夫の網に十一面観音がかかり草庵を結んだことで圓福寺が開基しました。平安時代に三崎荘(海上荘)が置かれ九条家が所有しました。平忠常の子孫である千葉氏が力をつけて、平安時代後期に千葉常衡が海上余一を名乗り中島城を中心として統治しました。源義経が奥州へ落ち延びるとき、置き去りにされた愛犬が七日七晩泣き続けた伝説から犬吠埼と名付けられました。

飯沼観音(圓福寺)
漁で十一面観音菩薩像を引揚げた清三と長蔵が出家して草庵を結んだことに始まります。二人は人びとの病を治して虐除法師と呼ばれました。
鎌倉時代、南北朝時代
海上氏はかつて存在した香取内海(霞ケ浦や利根川)での交易を盛んに行い圓福寺に伽藍を建立しました。銚子市域は門前町として栄え、現在に続く市街地の基礎が形成されました。
室町時代、安土桃山時代
九十九里方面からの塩荷が行き来するなど香取内海の水運が盛んに行われました。天正18年(1590年)に豊臣秀吉の小田原征伐で北条氏に与した海上氏は滅ぼされ、徳川家康の関東入国に伴い松平外記(伊昌)が統治しました。
江戸時代
徳川家康が関東代官伊奈忠次に命じて利根川を常陸川に流すと、常陸川の下流に位置する銚子の町は水運で活気づくことになります。元和2年(1616年)に摂津国の酒造家が教示して田中玄蕃が醤油の醸造を始め、正保2年(1645年)に紀州から浜口儀兵衛が移り住み醤油の醸造を開始しました。万治元年(1658年)に崎山治郎右衛門が外川に港を築き、銚子で生産された醤油や干鰯などの販売が促進されて銚子は江戸の台所と称されました。

美加保丸遭難事故
慶応4年(1868年)に榎本武楊の率いる幕府の軍艦・美加保丸が江戸から函館に回航する途中、黒生の岩礁に乗り上げ、乗組員13名が亡くなりました。

旧西廣家住宅
江戸時代末期に紀州から移り住んでのちに漁業を始めた西廣家の住居で、主屋の北に納屋と旧缶詰工場が隣接しています。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治初年には千葉県で一番人口が多い都市でした。利根川を蒸気船が就航して銚子ー東京間が結ばれると、避暑や海水浴の旅行者で賑わいました。昭和8年(1933年)に市制を敷いて、銚の形に似た地形から銚子と名付けられました。昭和20年(1945年)の空襲で壊滅的な被害を受けましたが、全国屈指の水揚げ量を誇る漁港となりました。
銚子事件
昭和31年(1956年)に空飛ぶ円盤が謎の金属片を落としたと言います。分析では鉛を10%含有したアルミニウムで、東大の糸川博士はアメリカで使用しているとの見解を示しました。金属片をアメリカに預けたところ手元に戻ることはなく、謎を残したまま今に至ります。

犬吠埼灯台
明治7年(1874年)に完成した英国人R・H・ブラントンが設計した純国産の洋式灯台で、日本一高い尻屋埼灯台に次ぐ高さです。

銚子ポートタワー
高さ60メートルほどの全国的にも珍しいツインタワーのランドマークで、平成3年(1991年)に竣工しました。