船橋市

船橋市は千葉県の北西部に位置する鉄道網が充実している千葉県第二の都市です。東京湾岸の温暖な気候を利用して農業が行われ、東葛地域は土壌が肥沃で梨の栽培に適しています。沿岸では海苔養殖や採貝業が盛んで、江戸前として人気があります。
概要
- 面積
- 85.62km2
- 人口
- 644,019人(2022年2月1日)
- 市の木
- サザンカ
- 市の花
- ヒマワリ、カザグルマ
- 地図
歴史
旧石器時代から人が生活をしていた痕跡が残ります。戦国時代に北条氏が滅亡すると徳川家の領地となり江戸時代には船橋宿として発展を遂げました。太平洋戦争では戦災を免れたため、農産物や海産物の集積場として日本の上海とも称されました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
西船・印内の印内台遺跡群の一部から旧石器時代後期の石器が見つかりました。市域の台地から縄文時代の多くの集落が見つかり、夏見台地や金杉台地などから弥生時代の遺跡が見つかります。

取掛西貝塚
米ケ崎町の台地に位置する縄文時代早期で、貝塚は東京湾東岸部で最も古く、集落の規模はこの時期では関東最大級です。
古墳時代、飛鳥時代
高塚の古墳はほとんど残されていませんが、外原遺跡や白井先遺跡など市域のあちこちから集落跡が見つかりました。

意富比神社(船橋大神宮)
景行天皇40年(110年)に日本武尊が東国平定に赴いた際、天照大神を祀り創建したと言われる船橋地方最古の神社です。
奈良時代、平安時代
下総国葛飾郡に属して夏見台地、印内台地、東中山台地に集落が形成しました。保延4年(1138年)に夏見を中心とする地域が伊勢神宮の荘園とされ、夏見御厨や船橋御厨と呼ばれました。
鎌倉時代、南北朝時代
鎌倉幕府の有力御家人である千葉氏が支配しました。西福寺には鎌倉時代後期の五輪塔や宝篋印塔が残されています。
室町時代、安土桃山時代
天文7年(1538年)と永禄7年(1564年)に後北条氏と里見氏が国府台で戦いとなりました。天正18年(1590年)の小田原征伐で後北条氏が滅亡すると、徳川家康が移封してその支配下に置かれました。
江戸時代
船橋地域は代官領と旗本領となり、佐倉街道、上総街道、行徳街道が集中する宿場町として大いに発展しました。元和元年(1615年)に鷹狩に訪れた徳川家康が船橋御殿に宿泊し、相撲に戯れていた子供の姿を見て意富比神社に相撲が奉納されるようになりました。享保7年(1722年)に下総薬園(小金野薬園)が開かれ、台地は下野牧と呼ばれる幕府直轄の広大な牧場が置かれました。慶応4年(1868年)の船橋戦争で船橋宿は戦火に巻き込まれ、意富比神社は幕府方の拠点となり砲撃されました。

船橋御殿跡
徳川家康が鷹狩に向かう道中で宿泊や休憩に使用した御殿で、元和元年(1615年)に徳川家康が東金へ鷹狩に向かう途上に宿泊した記録が残されています。

常盤神社
徳川家康が創建した神社で、船橋の東照宮とも呼ばれます。日本武尊を中心として左手に徳川家康と徳川四天王、右手に徳川秀忠が祀られています。
明治時代、大正時代、昭和時代
船橋地域は葛飾県や印旛県を経て、明治6年(1873年)に千葉県となりました。明治27年(1894年)に総武鉄道、大正5年(1916年)に京成電気軌道、大正12年(1923年)に北総鉄道が開通したことで地方都市から東京の衛星都市へと変化しました。昭和12年(1937年)に船橋市が成立し、軍需工場が進出して発展しました。船橋市域は空襲被害が軽微で、戦後に農作物や海産物の集積地となり日本の上海とも称されました。

明治天皇船橋行在所
明治天皇が大和田原に行幸され、近衛兵の演習を統監して習志野原と名付けました。このときに桜屋という旅館に立ち寄りました。

燈明台
明治13年(1880年)に地元漁業関係者が再建した国内最大級の民間灯台で、明治28年(1895年)まで政府公認の施設灯台として利用されました。