館山市

館山市は房総半島南部に位置する温暖な気候に恵まれたまちです。この地を治めていた里見氏をモデルとして、曲亭馬琴の南総里見八犬伝の舞台になりました。米作や酪農が盛んで伝統的な八手網のイワシ漁が行われるほか、伝統工芸の房州うちわも生産されます。
概要
- 面積
- 110.05km2
- 人口
- 44,444人(2022年2月1日)
- 市の木
- ツバキ
- 地図
歴史
南北朝時代に安房国に入部した里見氏は、武士団を掌握して最盛期には房総半島全域を支配下に置きました。館山は館山城の城下町として商人が集められ、江戸時代には干鰯や薪などを江戸に送る廻船業で発達しました。戦争が色濃くなると、東京や軍港横須賀を守る軍事拠点が置かれました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
稲原貝塚や鉈切洞穴遺跡などでは、海岸線の高台や海食洞穴を住居として生活しました。黒曜石は安房地方では取れないため、伊豆半島や伊豆諸島の神津島から入手していました。下真倉の田んぼからは弥生時代の水田跡が見つかりました。

鉈切洞穴
約2万年前に波の侵食による海食洞穴で、縄文時代後期を中心とした土器や動物や魚の骨、貝類、鹿の角や動物の骨で作られた釣針などが多数出土しています。

安房神社洞窟遺跡
縄文から弥生時代の墓地として利用された海食崖の先端に形成された海食洞窟で、人骨22体、貝製の腕輪193個、石製の丸玉3個、土器などが出土しました。
古墳時代、飛鳥時代
古墳時代の豪族の墳墓は高塚の古墳ではなく、海食洞穴が利用されました。大寺山洞穴では丸木舟を棺にした舟棺と呼ばれるものに豪族が埋葬されていました。天富命は忌部一族を引き連れて房総半島南部に上陸し、房総半島を開拓した神話が残されています。
奈良時代、平安時代
養老2年(718年)に設置された安房国は、天平13年(741年)に上総国に合併され、天平宝字元年(757年)に分立されました。安房国は海上交通の拠点であるだけでなく海産物に恵まれ、なかでもアワビは特産品として都に運ばれました。嘉保3年(1096年)から仏教信仰に篤い源親元が国司となり仏教を広めますが、長元元年(1028年)に房総半島に土着した上総介忠常が安房国府を襲いました。

那古寺(那古観音)
養老元年(717年)に行基菩薩が、海中から得た香木で千手観音像を謹刻して天皇の病気平癒を祈願したところ、効験が現れたことから勅願により創建されました。

大福寺(崖観音)
養老元年(717年)に行基菩薩が、東国行脚の折に神人の霊を受け、地元漁民の海上安全と豊漁を祈願して山の岩肌の自然石に十一面観世音菩薩を彫刻したと言われています。

安房国分寺跡
奈良時代後半に真言宗智山派国分寺の一帯は安房国国分寺が成立したと考えられており、素縁七葉素弁蓮華文の鐙瓦や獣脚の形をした三彩陶器が出土しています。
鎌倉時代、南北朝時代
鎌倉幕府が成立すると安房国北部は三浦氏が入り、安房国南部は安西氏や丸氏、神余氏、安東氏、山下氏、多々良氏がいました。鎌倉幕府が滅亡して南北朝時代を迎えると、上野国新田氏を源流とする房総里見氏の祖・里見義実は、鎌倉公方足利氏の命を受けて対立していた関東管領上杉氏を駆逐するために安房に進出しました。里見氏は白浜を拠点としたのち、国府に近い要衝の地に稲村城を築いて支配を固めました。

やぐら
山の中腹に四角い穴を掘り五輪塔や宝篋印塔を置いた武士や僧侶の墓で、鎌倉と房総半島だけに集中してつくられていることから鎌倉と深い関係がありました。
室町時代、安土桃山時代
里見氏は安房の武士を従えるようになり勢力を広げましたが、天正6年(1578年)に里見義弘が死去すると里見義頼と梅王丸の家督争いが起こりましたが、里見義堯は水軍を編成して最盛期には房総半島全域に勢力を広げました。天正5年(1577年)に後北条氏との争いが終わると、館山には商人が集められて交易が盛んになりました。

里見氏城跡(稲村城跡)
15世紀後半から里見義通が居城とした城で、天文3年(1534年)に里見氏の内乱で里見義豊が滅ぼされるまで居城として使われました。

館山城
天正8年(1580年)に里見義頼が築城しました。豊臣秀吉から上総を没収された里見義康は、天正19年(1591年)に岡本城から居城を移しました。
江戸時代
慶長19年(1614年)の大久保忠隣事件で、里見忠義は大久保忠隣の孫娘を室に迎えていたことから城の無断改修と召抱えの家臣の多さなどを理由として伯耆国倉吉に改易されました。館山藩は東条藩、安房勝山藩、北条藩、安房三枝藩に分割され、天明元年(1781年)に旗本稲葉正明が館山藩を再藩しました。 館山市街は干鰯や薪などを江戸に送る廻船業で栄えますが、元禄16年(1703年)の元禄地震の大津波で被害を受けました。
大神宮村七義民
寛文12年(1672年)に旗本河野三左衛門の厳しい取立てで苦しい生活を強いられた大神宮村の人びとは、延宝7年(1679年)から続いた大凶作もあり、天和2年(1682年)に名主小柴三郎左衛門を始めとする7人が江戸奉行所へ訴えました。江戸奉行所への訴えは大罪とされ、7人は斬首刑に処されました。村の人びとは7人を七義民を悼んで墓碑を建てて弔いました。

八遺臣の墓
元和8年(1622年)に里見忠義が失意のうちに亡くなると、主君に随従した板倉昌察ら8人の家臣は忠義に殉じて死を選び、南総里見八犬伝のモデルとなりました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治2年(1869年)に成立した館山県は木更津県に合併され、明治6年(1873年)に印旛県と合併して千葉県となりました。醍醐新兵衛の伝統的捕鯨や神田吉右衛門や小谷治助らのマグロ延縄漁で栄え、明治11年(1878年)に東京霊巌島との間に汽船が就航したことで新鮮な農水産物が輸送されるようになりました。大正12年(1923年)の関東大震災で壊滅的な被害を受けました。昭和14年(1939年)に館山市が誕生しますが、東京や海軍の拠点横須賀を防衛するために軍事防御施設がつくられ、国家機密として厳しい規制下におかれました。

赤山地下壕跡
凝灰岩質砂岩を素掘りした地下壕で、館山海軍航空隊の司令部・奉安殿・戦闘指揮所・兵舎・病院・発電所・航空機部品格納庫・兵器貯蔵庫・燃料貯蔵庫ありました。

萬徳寺釈迦涅槃仏
昭和57年(1982年)に建立した全長16メートル、重さ30トンの涅槃仏で、青銅製では世界最大級のものと言われます。