木更津市

木更津市は房総半島西部の東京湾岸に位置する温暖な町で、古くから港町として発展してきた商業都市です。沿岸部には東京湾最大の盤洲干潟が広がり、内陸部には上総丘陵など豊かな自然環境に恵まれています。
概要
- 面積
- 138.95km2
- 人口
- 136,369人(2021年11月1日)
- 市の木
- ツバキ
- 市の花
- サツキ
- 地図
歴史
東京湾に面した港町で、古くから海上交通の要衝として栄えました。江戸時代には徳川家康から海上輸送の特権を与えられ、江戸への物資供給地として重要性を増しました。高度経済成長期に大規模な工業地帯が形成し、東京湾アクアラインの開通でアクセスが飛躍的に向上しました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
旧石器時代から人びとは狩猟採集や漁撈を営み、縄文時代には菅生遺跡や南房総最大級の祇園貝塚などの集落を形成しました。弥生時代には水田跡が確認され、中越遺跡から祭祀道具である銅鐸が見つかりました。
古墳時代、飛鳥時代
東国平定を進める日本武尊は、寵妃の弟橘媛が我が身を海に沈めて海神の怒りを鎮めたことで、大荒れの東京湾を渡ることができたとされます。日本武尊は弟橘媛の運命を悲んで、君不去と呼んだことから木更津となりました。馬来田国造という豪族が支配したとされ、その一族が金鈴塚古墳を造営しました。

金鈴塚古墳
6世紀後半の前方後円墳で、馬来田国造の一族のものとされています。国内には例がない純金製の鈴が発見されたことでも知られます。
奈良時代、平安時代
養老2年(718年)に上総国から平群郡、安房郡、朝夷郡、長狭郡の4郡を割いて安房国が置かれました。二重山遺跡では砂鉄から鉄をつくる製錬炉や鍛冶炉のほか炭焼き窯が置かれました。奈良時代から平安時代にかけて久野遺跡に寺跡があり、墨書土器や瓦が出土しています。
鎌倉時代、南北朝時代
建長4年(1252年)に矢那に住む大野五郎右衛門らが鎌倉の大仏鋳造に協力しました。
室町時代、安土桃山時代
康正2年(1456年)頃に上総武田氏の祖である武田信長が上総守護代となり、武田氏の一族が真里谷城を築城して真里谷氏を名乗りました。真里谷氏は一族の内乱と第1次国府台合戦で勢力が衰退し、上総地方の支配者が里見氏から北条氏へと移り変わりました。
江戸時代
慶長19年(1614年)の大阪冬の陣に木更津の水夫24人が参加し、徳川家康から海上輸送の特権を与えられました。文政4年(1821年)に近江屋甚兵衛が海苔養殖に成功しました。慶長2年(1866年)に米価高騰により一揆が起きました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治4年(1871年)の廃藩置県で木更津県となり、明治6年(1873年)に千葉県となりました。昭和17年(1942年)に木更津市が誕生し、戦後の高度経済成長期に工業地帯が形成して京葉工業地帯の一角を担うようになりました。昭和43年(1968年)に木更津港が重要港湾となり、平成9年(1997年)に東京湾アクアラインが開通して首都圏とのアクセスが向上しました。

海ほたる
東京湾アクアラインにある全長650メートルの人工島で、京湾に浮かぶ豪華客船をイメージして建設され、海に浮かぶ光から名付けられました。