成田市

成田市は千葉県北部中央に位置する中核都市で、北は利根川が貫流して西は印旛沼があります。江戸時代は成田山新勝寺の門前町として栄え、昭和時代には抗争の末に成田国際空港が開港して我が国の玄関口の一つとなりました。
概要
- 面積
- 213.84km2
- 人口
- 131,060人(2022年2月1日)
- 市の木
- ウメ
- 市の花
- アジサイ
- 市民の日
- 3月27日
- 地図
歴史
平将門の乱を契機として創建した成田山新勝寺は、武家から厚く信仰されました。江戸時代になると成田山新勝寺や宗吾霊堂などの門前町として栄え、参拝できない江戸庶民のために新勝寺は出開帳を行いました。明治時代に整備された皇族専用の御料牧場は一般に開放されたのち紆余曲折を経て、昭和53年(1978年)に成田空港が開港しました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
三里塚遺跡から約3万年以前に使われた房総最古の先土器時代の楕円形石器が出土しました。縄文時代には大須賀川などの河川近くの台地に椎ノ木遺跡、長田和田遺跡、子ノ神遺跡などに集落が形成しました。弥生時代には南羽鳥遺跡群や神城址遺跡などで方形周溝墓が造営されました。
古墳時代、飛鳥時代
印波国と呼ばれる古代の国がありその中心地となりました。利根川に注ぐ根木名川周辺台地と北印旛沼東岸台地には200基を超す古墳が分布し、東日本最大級を誇る方墳がある龍角寺古墳群や公津原古墳群などが残ります。

八代玉作遺跡
古墳時代前期から中期にかけて運用された10棟の玉作工房が見つかり、碧玉質の緑色細粒凝灰岩で作られた管玉の完成品や未成品が大量に出土しました。

公津原古墳群
4世紀前半から7世紀後半までの長期間にわたり造営された古墳群で、総数120基を超える古墳のなかで6~7世紀に造営されたものが多いです。

上福田岩屋古墳
印旛沼北部東岸の台地上に築造された7世紀後半の日本最大規模の方墳で、貝の化石を含む砂岩を積み上げた横穴式石室が開口しています。
奈良時代、平安時代
律令体制が成立して埴生郡、印旛郡、香取郡に属し、交通の要衝として山方駅や荒海駅が設けられました。平将門の乱が起こると勅命を受けた寛朝大僧正が空海作の不動明王像を奉じて下総国へ下り、天慶3年(940年)に寛朝大僧正は朝敵調伏の不動護摩供を奉修しました。平将門は寒の戻りの風に流された一本の矢を額に受け、絶命したとされます。

成田山新勝寺
寛朝大僧正が帰京しようとしても不動明王像が動こうとしないため、朱雀天皇は神護新勝寺の寺号を下賜して東国鎮護の霊場として新勝寺を創建しました。
鎌倉時代、南北朝時代
鎌倉幕府の有力御家人となる千葉氏が支配を強化していきました。千葉常秀の子である千葉時常は埴生庄を与えられ、埴生次郎を名乗り支配しました。
室町時代、安土桃山時代
下総千葉氏及び系累の支配下が続きましたが、天正18年(1590年)の小田原征伐で後北条氏が滅ぶと千葉氏も滅亡して徳川家康が関東に入部しました。明応7年(1498年)に長興院が創建しました。
江戸時代
慶長8年(1603年)に江戸幕府が開府すると、市域は佐倉藩、田安家、幕府領、旗本領が入りました。成田山新勝寺や宗吾霊堂などの門前町として栄え、元禄16年(1703年)から12回にわたり出開帳が行われました。歌舞伎役者の初代團十郎は成田山に祈願して二代目を授かり、成田不動尊にまつわる歌舞伎を上演して成田屋の屋号を使うようになりました。
義民・佐倉宗吾
木内惣五郎(佐倉宗吾)ら6人の名主たちは、幕府に凶作と過酷な重税に苦しむ農民の窮状を訴えましたが受入れられず、木内惣五郎は当時禁じられていた将軍へ直訴しました。承応2年(1653年)に直訴は受け入れられましたが、代償として惣五郎とその家族は処刑されました。失政を悔いた佐倉藩は、宝暦2年(1752年)に木内惣五郎の名誉を回復して宗吾道閑居士の法号を与えました。

小野治郎右衛門忠明・忠常墓
江戸時代初期の剣豪で小野派一刀流の流祖となる小野次郎右衛門忠明の五輪塔と、3代将軍徳川家光の指南役となる二代小野次郎右衛門忠常の五輪塔です。

成田山表参道
江戸時代から門前町として栄えた参道で今でも名残をとどめています。旅館や料理店が軒を連ね、参拝客をもてなす老舗うなぎ料理店が数多くあります。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治4年(1871年)の廃藩置県で印旛郡に属し、明治6年(1873年)に千葉県に編入されました。成田には皇室専用の御料牧場が整備されましたが、戦後に海外からの復員やアメリカに占領された沖縄の人びとが入植して開墾を進めました。昭和29年(1954年)に成田市が誕生し、昭和53年(1978年)に成田空港が開港しました。
三里塚(成田)闘争
高度経済成長期で日本が発展して羽田空港の発着が限界を迎えると、昭和41年(1966年)に新東京国際空港の建設が閣議決定されました。建設予定地はかつて御料牧場が置かれていた三里塚で、戦後に長年にわたる開墾で根付いた人びとは反対運動を行いました。政府は破格の条件で買収を図りますが、反対を貫いた人びとは機動隊と激しく衝突しました。機動隊3名が亡くなる参事となりましたが、昭和53年(1978年)に成田空港は開港しました。

成田空港
空港建設反対運動の紆余曲折を経て、昭和53年(1978年)に開港した国際空港です。今もなお反対派との衝突が続いています。