歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

君津市

千葉県君津市の久留里城からの眺め

君津市は房総半島のほぼ中央部に位置し、千葉県内で2番目に大きな面積を有しています。江戸時代に久留里藩の城下町として栄え、現在は関東を代表する工業都市となりました。清澄山や三石山系の地下水は平成の名水百選に選定され、湧水を活用したカラー(湿地性植物)の生産量は日本一です。

概要

面積
318.81km2
人口
81,032人(2022年2月1日)
市の木
キャラボク
市の花
ミツバツツジ
地図

歴史

君津市は、昭和初期まで内湾漁業と海苔養殖を主産業とする寒村に過ぎませんでした。戦時中に第二海軍航空廠の工場が設立して遠浅な海が埋立に適していることがわかると、戦後に埋立事業が進められて君津製鉄所が創設するなど重工業地帯を形成していきました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

鹿野山と小糸川を望む台地上の鹿島台遺跡から弥生時代の竪穴建物跡や古墳などが見つかり、常代遺跡からは方形周溝墓や水田に水を引く堰跡が見つかりました。

古墳時代、飛鳥時代

多数の古墳が存在しており、最大の前方後円墳は6世紀に築造された八幡神社古墳です。6世紀から7世紀前半には小糸川流域は須恵国造が支配し、小櫃川上流域は馬来田国造が支配していました。

千葉県君津市の白山神社古墳

白山神社古墳

小櫃川中流域右岸の台地の先端にある古墳時代前期の前方後円墳で、後円部の背後には幅広い周溝状の平坦面と周堤帯が認められます。

千葉県君津市の飯籠塚古墳

飯籠塚古墳

小櫃川中流域左岸の丘陵にある古墳時代前期の前方後円墳で、全長約100メートルあり小櫃川中流域で最大級の規模を誇ります。

千葉県君津市の道祖神裏古墳

道祖神裏古墳

小糸川下流域の北岸にある古墳時代前期の千葉県最大級の前方後方墳で、後方部北側の周溝から甕形土器等が出土しています。

千葉県君津市の八幡神社古墳

八幡神社古墳

小糸川下流域の北岸の低地に立地する古墳時代後期の前方後円墳です。古墳に伴う時期の遺物は出土していていません。

奈良時代、平安時代

律令体制で上総国陶周淮郡に属して周淮郡衙が置かれたとされ、清和天皇第三皇子の貞元親王がこの地に下向して没したとの伝承が残ります。律令体制が崩壊していくと上総国は上総氏や千葉氏ら武士団が支配し、市域は上総広常は支配していました。上総広常は源頼朝を支援しましたが、謀反の疑いをかけられて鎌倉で誅殺されました。

千葉県君津市の九十九坊廃寺阯

九十九坊廃寺阯

小糸川中流域北岸の台地にある7世紀末から8世紀初頭の古代寺院で、三重塔跡と講堂跡が確認されており、上総国周淮郡の郡寺に推定されています。

千葉県君津市の鐘ケ淵

鐘ケ淵

里見氏と北条氏の合戦で、九十九坊廃寺の梵鐘がこの池に沈んだことで鐘ケ淵と名付けられました。銭を投げ入れ念仏を唱えると水が湧き上がるという伝説があります。

鎌倉時代、南北朝時代

周淮郡は周西郡と呼ばれるようにになり、周西荘と呼ばれる荘園が成立しました。小櫃川流域は小櫃氏が拠点としたとされます。鎌倉仏教が流入して多くの寺院が創建し、正嘉2年(1258年)に三経寺が創建し、徳治2年(1307年)に正源寺が創建しました。

室町時代、安土桃山時代

康正元年(1455年)に上総武田氏の祖・武田信長が上総守護代に任ぜられ、真里谷城を本拠として真里谷氏を名乗りました。真里谷氏が衰えると里見氏が統治するようになり、天文4年(1535年)に里見義堯が久留里城を大改修して本拠としますが、台頭してきた後北条氏と争奪戦が繰り返されました。天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原征伐で里見義康が惣無事令違反を犯して上総の所領が没収され、徳川家康の関東移封により天領や旗本領が点在して久留里城は松平(大須賀)忠政に与えられました。

千葉県君津市の久留里城

久留里城

康正2年(1456年)に上総武田氏の祖・武田信長が築城したとされ、真里谷氏や里見氏が居城としたあと江戸時代には藩庁となりました。

江戸時代

江戸幕府が成立して、久留里城が久留里藩の藩庁となりました。慶長6年(1601年)に松平(大須賀)忠政が遠江国横須賀城に転封になると土屋忠直が入りますが、延宝7年(1679年)に土屋氏が改易されて久留里城が一時廃城となりました。寛保2年(1742年)に黒田直純が久留里城に入ると、久留里城を近世城郭に整備しました。浅草海苔の商人である近江屋甚兵衛は、文政5年(1822年)に小糸川河口の人見で海苔養殖に成功しました。

千葉県君津市の近江屋甚兵衛墓

近江屋甚兵衛墓

浅草海苔の商人のかたわら海苔の養殖と製造法を研究し、河川の流入する遠浅の海にヒビ木を立てることを考案して海苔養殖に成功しました。

明治時代、大正時代、昭和時代

廃藩置県で久留里県から木更津県に再編され、明治6年(1873年)に印旛県と統合されて千葉県となりました。昭和初期まで内湾漁業と海苔養殖を主産業とする寒村に過ぎませんでしたが、昭和17年(1942年)に第二海軍航空廠の工場がつくられました。これを契機として戦後に埋立事業が進められ、昭和40年(1965年)に君津製鉄所が創設するなど重工業地帯が形成しました。北九州八幡から移住が相次いで人口が増加したことで、昭和46年(1971年)に君津市が成立しました。