富津市

富津市は房総半島の中西部にあり、東京湾に面しています。緑豊かな鹿野山など海や山に囲まれた自然豊かな町です。東京湾に突出した富津岬は関東の天の橋立と称されます。
概要
- 面積
- 205.53km2
- 人口
- 41,673人(2021年11月1日)
- 市の木
- サクラ
- 市の花
- ツツジ
- 地図
歴史
須恵国と呼ばれる独自の国が存在して須恵国造一族が治めた地で、日本武尊が東京湾を渡海した伝説が残ります。室町時代に台頭してきた里見氏は東京湾の制海権を巡り後北条氏と争うなど、東京湾は重要な交通の要衝として明治時代以降も東京を守る要所として旧日本軍が基地を築造しました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
旧石器時代に湊川近くの丘陵や三舟山などで生活していた人びとは、縄文時代に集落を形成して定住を始めました。弥生時代になると河川に近い丘陵に川島遺跡などの集落を形成しました。
古墳時代、飛鳥時代
須恵国と呼ばれる独自の国が存在したとされ、小糸川下流域の沖積平野には須恵国造一族の墓と言われる内裏塚古墳群が造営されました。房総の玄関口として畿内と強い繋がりを持つ地域であり、伝説では日本武尊の寵妃・弟橘媛が我が身を海に沈めて海神の怒りを鎮めたことで、日本武尊は大荒れの東京湾を渡り東国平定を進めることができたとされます。このとき弟橘媛が身に付けていた衣が流れ着き、布流津が転じて富津と呼ばれるようになりました。

内裏塚古墳
小糸川河口付近の低地に存在する古墳群で、5世紀から7世紀の前方後円墳11基・方墳7基・円墳19基・墳形不明12基で構成されます。

弁天山古墳
内裏塚古墳群の最南端に位置する5世紀後半の前方後円墳で、天井を大型の板状の切石で覆う竪穴式石室が残されています。

絹横穴群
岩瀬川北岸の丘陵南側斜面に位置する11基の横穴墓で、1号墓には大同元年(806年)の銘があり埋葬や祭祀が継続していたことを物語ります。

大満横穴群
6世紀後半~7世紀につくられた66基の横穴墓で、一部の横穴墓から船の線刻壁画が確認されたほか、人骨や須恵器、土師器や直刀などが出土しています。
奈良時代、平安時代
律令体制の成立により周淮郡と天羽郡が成立しました。長元元年(1028年)に平忠常の乱が起こり、源頼信により鎮圧されました。
鎌倉時代、南北朝時代
鎌倉幕府の侍所別当を務めていた和田義盛が所領を得ていたとされ、鎌倉仏教が伝わることで光厳寺や法眼寺、薬王寺、真福寺、光明寺、不動院、法性寺など多くの寺院が創建しました。
室町時代、安土桃山時代
房総半島に上陸した里見氏は、安房国の武士を支配下において勢力を伸ばし、東京湾の制海権を巡り後北条氏と対立するようになりました。元禄10年(1567年)には三船山山麓で合戦となり、里見氏が勝利しています。天正18年(1590年)の小田原征伐で後北条氏が滅ぶと里見氏は安房一国となり、市域は小笠原信元ら旗本領となり内藤家長が佐貫城に入りました。
江戸時代
寛永6年(1629年)に保科正貞が飯野藩を立藩し、寛永10年(1633年)に松平重則が百首藩を立藩して7年だけ存続しました。宝暦3年(1753年)に諏訪幸右衛門と水越藤左衛門が千種新田を開発しました。天明2年(1782年)の天明の大飢饉は、翌年の浅間山の大噴火で飢饉に拍車をかけました。幕末の佐貫藩では勤皇派と佐幕派が対立し、家老相場助右衛門が暗殺されて旧幕府軍に援助することが決定しました。佐貫藩には水戸藩から派生した尊王攘夷派の天狗党が預けられ、多くのものが処刑されました。

飯野陣屋濠跡
慶安元年(1648年)に初代藩主保科正貞が築造した陣屋で、飯野藩の藩主保科家とその家臣たちの屋敷が存在しました。

織本花嬌の墓
江戸時代中期の女流俳人で、酒造業と金融業を営む豪商・織本嘉右衛門に嫁ぎました。大島蓼太に師事して俳句を学び、小林一茶とも親交がありました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治4年(1871年)の廃藩置県で飯野県・佐貫県・小久保県が設置されたのち木更津県に統合され、明治6年(1873年)に千葉県に編入されました。明治時代から大正時代にかけて東京を防衛するため、人口島の砲台である第一海堡と第二海堡を築造しました。大正12年(1923年)の関東大震災で甚大な被害を被害を受けました。

マザー牧場
昭和37年(1962年)に産経新聞や東京タワーなどを創業した前田久吉が開園した観光牧場で、亡き母親への想いをこめて名付けられました。