香取市

香取市は千葉県の北東部に位置し、北部を利根川が流れています。水郷の風情漂う水田地帯が広がり、古くから水郷の早場米産地として知られる米どころです。温暖な気候と肥沃な農地に恵まれ、食用甘しょの生産及び販売額は全国一を誇ります。
概要
- 面積
- 262.35km2
- 人口
- 70,808人(2022年2月1日)
- 市の木
- サクラ
- 市の花
- アヤメ(ハナショウブ、カキツバタ)
- 市の鳥
- ヨシキリ(オオヨシキリ、コヨシキリ)
- 地図
歴史
香取の海と呼ばれる広大な内海を利用した海上交易で発展してきました。江戸時代には利根川の大規模な治水工事で江戸との航路が確保され、下利根随一の商業都市として佐原の町並みが形成しました。江戸からの文化が流入し、日本で初めて実測による日本地図を作製した伊能忠敬を輩出しました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
旧石器時代から人の営みがあり、阿玉台北遺跡からナイフ形石器が出土しました。縄文時代は気候の温暖化による海水面の上昇で香取の海と呼ばれる内海があり、台地上及び台地斜面部を中心に多くの貝塚が形成しています。弥生時代には香取の海の台地縁辺部や利根川の自然堤防上に集落が形成し、香取の海の水上交通により独自の文化圏を形成しました。

阿玉台貝塚
黒部川流域にある縄文時代中期前半に形成した貝塚で、発掘された土器は霞ヶ浦沿岸に分布しており、この貝塚から阿玉台式土器と命名されました。

下小野貝塚
小野川中流域の台地斜面に形成する縄文時代中期の貝塚で、海産貝類と汽水域の貝類が確認され、出土した土器は下小野式土器と名付けられました。

良文貝塚
利根川の支流である黒部川の右岸台地の斜面にある縄文時代後期の貝塚で、貝層はあまり大きくはないものの面積は利根川下流域で最大級を誇ります。
古墳時代、飛鳥時代
下海上国造がこの地を支配していました。利根川自然防波堤などに三ノ分目大塚山古墳などの大型前方後円墳が造営され、利根川下流域最大規模の大塚山古墳は、香取の海の水上交通を掌握していた豪族が埋葬されたと考えられています。
奈良時代、平安時代
仏教が伝わると全国的に古墳から寺院の造営へと変わり、7世紀後半には木内廃寺跡が置かれました。律令体制の成立により下総国香取郡、海上郡、匝瑳郡に属しました。この頃から鉄製農耕具が普及したことで、水田耕作に適した広い低地だけでなく谷奥部まで開墾されていきました。律令制が崩壊して荘園化が進むと、平将門が常陸国府を襲撃する反乱に発展しました。阿玉台には平将門の乱を平定した平良文の館が所在していたと伝わります。

香取神宮
下総国の一宮であり、茨城県の鹿島神宮や息栖神社とともに東国三社に数えられます。元禄13年(1700年)に5代将軍・徳川綱吉が本殿や楼門を造営しました。
鎌倉時代、南北朝時代
千葉常胤は平家討伐で蜂起に失敗して安房に流れた源頼朝を支え、鎌倉幕府成立に携わる有力な御家人となりました。千葉氏の一族である国分氏は鎌倉時代末期に大崎に拠点を移し、東氏は承久の乱の軍功により美濃国に移りました。
室町時代、安土桃山時代
千葉氏一族がその勢力を誇り、千葉氏一族の国分氏や東氏一族の木内氏が支配しました。戦国時代には小見川には粟飯原氏が勢力を有するようになりますが、小田原征伐で後北条氏が滅亡すると、属将の千葉氏も滅亡しました。佐原には居元忠が入りますが短期間で転封し、多くは幕府代官支配地や旗本知行地となりました。

飯篠長威斎墓
我が国最古の権威ある流儀として知られている天真正伝神道流を創始した飯篠長威斎の墓で、将軍足利義政に仕えたあとに香取神宮近くに道場を開いて子弟指導しました。
江戸時代
江戸幕府の大規模な治水工事により、東京湾に注いでいた利根川の水量の多くを銚子から太平洋に流すことに成功しました。江戸の水害が軽減されるとともに新たな河川航路が開発されたことで佐原などが舟運による物資の集積地として発展しました。寛永16年(1639年)に内田正信が小見川村を加増され、享保9年(1724年)に内田正親が本拠を鹿沼から小見川に移して小見川藩が成立しました。

下総佐倉油田牧跡
乗用馬等の養成のために江戸幕府が直轄で経営した佐倉七牧の一つで、外周を囲む野馬除土手跡や馬を集めて選別する野馬込跡などの遺構が残されています。

佐原の町並み
水運を利用して江戸優りと言われるほど栄えた町並みが残されています。佐原は江戸の文化を取り入れ、更にそれを独自の文化に昇華していました。

初代松本幸四郎墓
江戸時代中期の歌舞伎役者で、久松多四郎の門に入り最初は松本小四郎と名乗り、享保元年(1710年)に松本幸四郎と改名しました。

久保木竹窓遺跡
久保木竹窓は儒教のほか暦学や天文学などに精通し、私塾・息耕堂を開きました。伊能忠敬との親交も深く大日本沿海與地全図の完成にも協力しました。

伊能忠敬旧宅
伊能忠敬が17~50歳まで過ごした家屋で、寛政5年(1793年)に建築されました。伊能忠敬は50歳で江戸に出て実測による日本地図を完成させました。

佐藤尚中誕生地
佐藤尚中は江戸で西洋医学を学び、佐倉藩主堀田正睦に招かれて外科医として多くの患者を救いました。のちに現在の順天堂大学となる順天堂医院を開きました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治4年(1871年)の廃藩置県により新治県に属し、明治8年(1875年)に千葉県に編入されました。明治33年(1900年)に利根川改修工事が始まり、大正10年(1921年)には横利根閘門が竣工して利根川の逆流を防ぎました。

三菱銀行佐原支店旧本館
大正3年(1914年)に清水満之助商店(現清水建設)が設計して、川崎銀行佐原支店として建設された洋風煉瓦造の建物です。