安房郡

安房郡は房総半島の西南部に位置し、西は東京湾に面しています。年間を通して穏やかな気候に恵まれ、古くから避暑地として多くの海水浴客が訪れています。日本三大水仙群生地のひとつと知られ、冬には一面に水仙が咲き乱れます。
概要
- 面積
- 45.19km2
- 人口
- 6,696人(2022年2月1日)
- 含む町村
- 鋸南町
- 地図
歴史
平家討伐の兵を挙げた源頼朝は、石橋山の戦いで敗れて小船でこの地へ逃れ、関東の豪族を従えて武家社会を成立させました。漁業が盛んなまちとして繁栄し、江戸時代には関東で初めて捕鯨が行われ、水揚げされた魚介類が江戸に運ばれました。室町時代から行われた採石事業は、明治時代に最盛期を迎えて日本の近代化を陰で支えました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
旧石器時代や縄文時代の遺跡は確認できませんでしたが、周辺の地域に遺跡が残されているため人が生活を営んでいたと考えられています。弥生時代になると田子台遺跡や下ノ坊遺跡などの集落跡が見つかりました。

田子台遺跡
房総半島南西部の東京湾口に位置する弥生時代後期の集落跡で、住宅跡2軒を検出したほか土器や紡錘車型軽石製品などの遺物も発見されています。
古墳時代、飛鳥時代
保田川左岸の台地上に房ヶ谷古墳が残されています。景行天皇が浮島に行幸したとき、磐六鹿命が魚介を調理して献上したという伝説が残ります。
奈良時代、平安時代
神亀2年(725年)に聖武天皇の勅願により、行基が関東最古の勅願所として乾坤山日本寺を開きました。治承4年(1180年)に伊豆で平家打倒の兵を挙げた源頼朝は、相州石橋山の合戦で敗れて土肥郷の真鶴岬から小船で脱出して逃れてきました。源頼朝は豪族の安西景益に身を寄せ、房総の有力豪族に使者や手紙を送り勢力を盛り返しました。

源頼朝上陸地
石橋山の合戦で敗れた源頼朝は真鶴岬から小船で脱出して安房の竜島に逃れました。竜島の村人たちは源頼朝を親切にもてなしたと言われています。
鎌倉時代、南北朝時代
安房国は安西氏、丸氏、東条氏、神余氏の豪族で四分され、安房郡は安西氏や笹生氏が治めていたとされます。南北朝時代に結城合戦に敗れて房総半島に落ち延びた里見義実は、安房の武士を従えて勢力を広げました。
室町時代、安土桃山時代
里見氏は水軍を擁し、後北条氏と東京湾の制海権を巡り争うようになりました。天正18年(1590年)に豊臣秀吉が小田原征伐を行うと、里見義康は参陣が遅れたうえに三浦半島や鎌倉方面に進軍した行為が関東惣無事令違反と見なされ、天正19年(1591年)に上総国が没収されました。
江戸時代
江戸幕府が成立すると市域は幕府の直轄地として旗本領地となりました。関東で初めて商業捕鯨が行われるなど漁業が盛んで、魚介類を江戸へ運ぶ港として栄えました。

菱川師宣誕生地
見返り美人の作者として知られている菱川師宣は保田で生まれました。木版画に彩色を施し大量に複製する方式を用いたことから浮世絵の祖と呼ばれています。

羅漢石像群
安永9年(1780年)に愚伝和尚の発願により、上総桜井の石工である大野甚五郎英令とその門弟27人が20年の歳月をかけて東海千五百羅漢を造営しました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治時代から避暑地として人気が高まり、明治22年(1889年)には夏目漱石が保田の海水浴場を訪れました。室町時代から続けられていた鋸山の採石業は、明治35年(1902年)に最盛期を迎えました。

鋸山
鋸山で採石される房州石と呼ばれる凝灰質砂岩は、加工しやすく耐火性に優れていたため、横浜港や台場建築に使われるなど日本の近代化を支えました。