千代田区

東京都千代田区は東京23区のほぼ中央に位置し、皇居・国会議事堂・官庁街などの日本の首都機能を有しています。日本一の電気街の秋葉原や古本屋が並ぶ神田神保町など特色ある町があり、西洋式公園の日比谷公園なども整備されています。
概要
- 面積
- 11.66km2
- 人口
- 66,797人(2021年10月1日)
- 区の木
- まつ
- 区の花
- さくら
- 区の鳥
- はくちょう
- 地図
歴史
室町時代に太田道灌が築いた江戸城は、のちに関東に移封した徳川家康が拠点としました。徳川家康は江戸幕府を開くと江戸城を大改修して城下町を整備しました。江戸幕府が崩壊すると明治天皇は東京奠都を行い、江戸を東京に改めて首都としました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
北の丸公園にある東京国立近代美術館遺跡から旧石器時代の遺物がみられ、三番町遺跡では縄文時代前期の住居も見つかります。令和5年(2023年)には一番町の英国大使館跡地で縄文時代から弥生時代の集落跡が発掘され、特に弥生時代の住居跡は区内で最大の規模を誇ります。
古墳時代、飛鳥時代
大規模な都市開発により痕跡があまり残されていませんが、神田川流域を望む台地上などで遺跡が確認されています。富士見二丁目遺跡では5世紀後半の円墳が見つかり、東京国立近代美術館遺跡からは住居跡や溝が検出しています。

柳の井・桜の井
桜田濠の土手下にある柳の井と名付けられた井戸は旱魃でも枯れることのない名水として知られ、道を挟んだ国会前庭には、やはり名水として知られた桜の井があります。

お玉ケ池
かつて大きな池がある湿地帯で、美人で評判のお玉という娘が二人の男性から想いを寄せられて悩んだ末に池に身を投げた伝承から名付けられました。
奈良時代、平安時代
天平2年(730年)に出雲系氏族の真神田臣が神田明神を創建し、伊勢神宮に稲の初穂を奉納する神の田が置かれたことで神田の地名が生まれました。桓武平氏の流れをくむ江戸重継が後三年の役で戦功により豊島郡江戸郷を与えられ、現在の皇居に館を築きました。

神田明神
天平2年(730年)に武蔵国豊島郡芝崎村に入植した出雲系の氏族・真神田臣が創建しました。江戸時代には江戸城の表鬼門として神田明神を遷座して江戸総鎮守としました。

将門塚
平将門に纏わるパワースポットで、天慶3年(940年)に藤原秀郷・平貞盛らに敗れた平将門は京都で晒し首となり、その首がここまで飛んできたとされます。
鎌倉時代、南北朝時代
江戸氏は鎌倉幕府の御家人としてこの地を治め続け、鎌倉に幕府が置かれたため、鎌倉の周辺地域として物資の供給や交易の場としての役割を担いました。弘長元年(1261年)には江戸長重が江戸郷前島村を北条得宗家に寄進して得宗被官となりました。
室町時代、安土桃山時代
室町時代になり江戸氏は衰退していき、関東管領扇谷上杉氏の家宰・太田道灌に追われました。長禄元年(1457年)に太田道灌は江戸城を築き、古河公方足利氏に対抗する拠点となりました。のちに後北条氏が支配しますが豊臣秀吉に攻められて滅亡し、天正18年(1590年)に徳川家康が関東に入りました。徳川家康は江戸城を大改修し、江戸城を中心とする町づくりを始めました。

江戸城跡
太田道灌が江戸氏の居館跡に築造した城郭で、徳川家康が関東移封して大改修されました。明治時代以降は皇居として使用されています。

江戸城外堀跡
徳川家康の命により諸藩大名が江戸城の築城を行い、伊豆の石切場で切り出された石が加工されて船で江戸まで運搬されて積み上げられました。
江戸時代
徳川家は3代にわたり日比谷入江の埋立や江戸城の拡張に伴い、大名藩邸、旗本屋敷、町地などが発展しました。人口が増加した江戸の食糧需要増加に対応するため、慶長17年(1612年)に伊勢の青物商人を呼び寄せて神田橋のたもとに神田多町市場が開かれました。明暦3年(1657年)の振袖大火で大きな被害を受けました。

常盤橋門跡
寛永6年(1629年)に整備された江戸城と街道を結ぶ江戸五口に数えられる城門で、浅草橋門を経て奥州街道に通じる重要な枡形門でした。

神田市場跡
明暦3年(1657年)の明暦の大火が起こると、幕府は江戸の町に散在していた青果市場を神田多町に集めて神田多町市場としました。

南町奉行所跡
南町奉行所は江戸町民の行政、裁判、消防などを担当しており、8代将軍徳川吉宗の側近である大岡越前守忠相が20年近く奉行を務めました。

北町奉行所跡
、天保の改革を主導した水野忠邦と対立しつつ庶民の暮らしを守り抜いた遠山の金さん(遠山左衛門尉景元)が3年間奉行を務めました。

評定所及び伝奏屋敷跡
明暦の大火により、老中・三奉行などが重要事項を裁決する評定所が勅使・院使など朝廷の伝奏衆が宿泊する伝奏屋敷を使用するようになりました。

滝沢馬琴宅跡の井戸
南総里見八犬伝などを執筆した滝沢馬琴は、寛政5年(1793年)に九段下の履物商・合田家に婿入りして執筆活動を行いました。

林大学頭邸跡
林羅山を祖とする幕府の儒官の最高官位である林大学頭の邸宅跡で、11代林復斉は開国を迫るペリーと交渉を行い日米和親条約を締結しました。

塙検校和学講談所跡
寛政5年(1793年)に塙保己一の建議で設置された国典の教授、出版事業を行う機関で、文化2年(1805年)にこの地に移転して慶応4年(1868年)に廃止されました。

蕃書調所跡
安政3年(1856年)に江戸幕府が設立した西洋書籍を解読して海外事情を調査する組織で、幕臣や諸藩の家臣に英語や西洋文学を教育する幕府官立学校となりました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治時代になり皇室が江戸城に移転して皇居となりました。明治2年(1869年)に発生した相生町の大火や明治5年(1872年)の銀座大火で大きな被害を受けました。丸の内は三菱財閥が土地を一括取得して赤レンガの町並みとなり一丁ロンドンとなり、やがてアメリカ式の大型ビルへと変化して一丁ニューヨークと呼ばれました。大正12年(1923年)に発生したマグニチュード7.9の関東大震災は、東京中心部の9割に相当する地域を焼失しました。
太平洋戦争
昭和初期の東京大空襲で大きな被害を受け、戦後の混乱期にに神田小川町から神田須田町にかけて闇市ができました。昭和24年(1949年)にGHQが露店撤廃例令を発布したことで闇市が秋葉原駅ガード下に収容されて秋葉原電気街ができました。

霞が関
日本武尊が関所を設けたところで、明治時代に黒田家の上屋敷を居抜きして初めての官公庁となる外務省ができてから官公庁街となりました。

靖国神社
維新の三傑である木戸孝之が大村益次郎に相談して招魂場を造ることに同意し、明治2年(1869年)に明治天皇の勅令で創建しました。

東京復活大聖堂(ニコライ堂)
神田駿河台にある日本ハリストス正教会の大聖堂で、明治24年(1891年)に竣工した日本で初めて建造された最大級の本格的なビザンティン様式の教会建築です。

東京府庁舎跡
明治27年(1894年)に建築家妻木頼黄の設計で煉瓦造りの庁舎が建てられ、府庁舎が大和郡山藩柳沢家の上屋敷から移転されました。

滝廉太郎宅跡
荒城の月などを作曲した滝廉太郎が明治27年(1894年)~明治34年(1901年)まで一番町に住んでいました。

東京駅
大正3年(1914年)に辰野金吾が設計した駅舎で関東大震災では被害を受けませんでしたが、空襲で東京駅のドームは焼け落ち、昭和22年(1947年)に再建されました。

関東大震災協力防火の地
大正12年(1923年)の関東大震災で、街の人たちが避難よりも消火活動を行い、火を消して火災の延焼を食い止めてました。

国会議事堂
昭和11年(1936年)に完成した40種類以上の国産の大理石や花崗岩が使用された建物で、入手困難な石も含まれるため石の博物館とも呼ばれています。

秋葉原
メ外神田にはAKB劇場ができて周辺にメイドカフェが軒を連ねてマンガ、アニメ、フィギュアなどのポップカルチャーの情報発信地となりました。