江東区

江東区は東京23区の東部に位置し、東の荒川と西の隅田川に挟まれて南は東京湾に面します。江戸時代以降の干拓や埋立により発展したため地盤が軟らかく標高が低い平坦な地形をしています。亀戸や門前仲町など下町風情が色濃く残り、都心にありながら豊かな水と緑に囲まれた癒しの空間が広がる水彩都市です。
概要
- 面積
- 40.16km2
- 人口
- 523,261人(2022年2月1日)
- 区の木
- クロマツ
- 区の花
- サザンカ
- 地図
歴史
江東区の発展は、江戸時代初期の埋立により始まりました。新田開発が進んだほか、縦横に巡る運河を利用して水運が栄え、問屋街を形成していきました。明治時代以降も埋立による土地の造成が進み、多くの工場が進出して京浜工業地帯の中核を担う工業都市として発展を遂げています。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
海水面が上昇する縄文海進の影響で海の下にあり、貝塚や集落跡などの遺跡は存在していません。
古墳時代、飛鳥時代
縄文海進の影響が後退しつつありましたが、海に面した低い湿地帯により集落や古墳は造営されませんでした。
奈良時代、平安時代
縄文海進が完全に終わりますが、海に面した広い湿地帯により集落を形成するには不向きな土地でした。
鎌倉時代、南北朝時代
東京湾に注ぐ河川のデルタ地帯の一部を成し、海面と散在する小島があるだけでしたが、河川は鎌倉に物資を運ぶ水運ルートのひとつとして利用されていたと考えられています。
室町時代、安土桃山時代
東京湾に面した広大な干潟や低湿地で隅田川や中川の河口部に広がる湿地帯でした。ごく僅かな微高地に漁業や水運を営んでいた集落が点在していたと考えられています。
江戸時代
江戸初期から埋立が進められて深川八郎右衛門が新田開発して深川村を創設し、万治2年(1659年)に砂村新左衛門一族が砂村新田を創設しました。小名木川など人工的な運河が造成され、行徳で製造された塩を運ぶ行徳船が行き交いました。明暦3年(1657年)の大火による再開発で両国橋が架橋して大名屋敷が移転し、永代橋が架橋してから水運を利用した材木業や倉庫業など物流拠点として商家が増えました。

富岡八幡宮
寛永4年(1627年)に永代嶋八幡宮として創建し、貞享元年(1684年)に大相撲の前身である江戸勧進相撲が日本で初めて執り行われました。

芭蕉翁古池の跡
松尾芭蕉が草庵を結び、貞享3年(1686年)に古池や蛙飛びこむ水の音の句を詠みました。松尾芭蕉はここから奥の細道の旅に出発しました。

深川不動堂
元禄16年(1703年)に富岡八幡宮の別当寺である永代寺で新勝寺の秘仏などを披露する第1回目の出開帳が行われたことで創建しました。

村田春海墓
江戸中期の国学者・歌人で、賀茂真淵に師事して琴後集などを著しました。江戸の宗匠と称され、従い学ぶ者が衆をなしたと言われます。

松平定信墓
田沼意次の貨幣経済を脱却し、徳川吉宗の享保の改革と同じく米の流通を重視しました。質素倹約を励行した寛政の改革は民衆から強い反発を招きました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治時代から工業化が進み、明治8年(1875年)に工部省深川工場で日本で初めてセメント製造が開始されました。やがて紡績、食品などの軽工業の工場が建ち、明治時代後期から大正時代にかけて化学工業、鉄鋼業、金属・機械工業などの重化学工業が発達しました。大正12年(1923年)の関東大震災で大きな被害を受けましたが、大規模な区画整理が行われて復興していきました。
東京ゴミ戦争
江東区は江戸時代からゴミ処理を担い、明治時代以降も東京都のゴミの大半を受け入れていました。そのまま埋めていたゴミは悪臭を放ち、戦後の発展とともに急増するゴミは社会問題となりました。東京都は各区にゴミ処理場を整備する計画を立てますが、東京都の一方的な通知に対して杉並区が反対し、昭和46年(1971年)に東京都知事がゴミ戦争を宣言しました。江東区民は一体となり杉並区のゴミの受入を反対する運動を起こし、昭和49年(1974年)に環境に配慮した清掃工場を杉並区に建設することを条件に和解が成立しました。

清澄庭園
豪商・紀伊國屋文左衛門の屋敷跡に関宿藩主久世大和守が造営した庭園は、明治24年(1891年)に岩崎弥之助が回遊式林泉庭園を完成させました。

深川江戸資料館
昭和61年(1986年)に江戸の文化の振興と向上を図るために開館した資料館で、天保年間の深川佐賀町の町並みが実物大で再現されています。