品川区

品川区は東京都の南東部に位置し東京湾に面し、貫流する目黒川が古くから品川と呼ばれていたことに由来します。都内でも有数の長さを誇る戸越銀座商店街など下町情緒が残るエリアと再開発により生まれた品川駅周辺の大規模なビジネス街が融合しています。
概要
- 面積
- 22.84km2
- 人口
- 418,499人(2022年2月1日)
- 区の木
- シイノキ・カエデ
- 区の花
- サツキ
- 区の鳥
- ユリカモメ
- 地図
歴史
東海道五十三次の宿場町として発展しました。明治時代以降は日本初の鉄道駅や日本初の洋式ガラス工場が置かれるなど京浜工業地帯発祥の地として発展し、今後もリニア中央新幹線の始発駅を予定しているなど発展が見込まれます。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
縄文時代早期から前期の遺跡である池田山北遺跡や、西五反田の桐ケ谷遺跡が区内で最も古い人々の営みにあたります。その後、縄文時代前期になると、居木橋遺跡など目黒川沿いで集落が営まれ、貝塚や住居址が発掘されています。縄文時代後・晩期の遺跡には大森貝塚があります。弥生時代後期に、目黒川左岸の池田山北遺跡に大規模な環濠集落が営まれていました。
古墳時代、飛鳥時代
古墳時代から奈良時代にかけて大井鹿島遺跡で集落が営まれ、6世紀後半の古墳群が存在していました。交通の要衝として、大井駅が置かれていたとされています。
奈良時代、平安時代
律令体制が成立して武蔵国荏原郡の一部となり、国衙の関係者として土着した大井氏とその一族の品河氏が支配していました。
鎌倉時代、南北朝時代
鎌倉に近い品川湊には鎌倉街道が通過し、海上交通の要衝として経済・軍事の両面で重要性が高まりました。品川湊には諸国から年貢米や特産品が集積し、問丸と呼ばれる商人が物資の保管・輸送を担い権力を持ちました。

品川神社
文治3年(1187年)に源頼朝が海上交通の安全と祈願成就の守護神として、天比理乃咩命を勧請して品川大明神と称したことに始まります。
室町時代、安土桃山時代
応永31年(1424年)に品河氏の所領は鎌倉公方に没収され、関東の動乱で関東管領上杉氏の支配を経て、小田原の後北条氏が治めました。品川は港町として栄え、関東への布教拠点として各宗派の寺院が建てられ、有徳人と呼ばれた裕福な海運業者が寺社に土地や建物を寄進しました。
江戸時代
参勤交代が制度化されたことで整備された品川宿は、東海道第一番目の宿場として栄えました。近郊は農村が広がり、寛文4年(1664年)の三田用水、寛文9年(1699年)に品川用水により居留木橋南瓜、戸越の筍、大井の人参、品川蕪などの江戸野菜が多く栽培されました。沿岸部の品川浦と大井御林浦の魚は江戸に運ばれ、品川沖の潮干狩りは江戸庶民の行楽地となりました。18世紀はじめに海苔の養殖がはじまると、浅草の海苔問屋に運ばれて浅草海苔として全国に知られました。
幕末の動乱
嘉永6年(1853年)に黒船が浦賀に来航したことで、幕府は江戸湾防備の拠点として西洋式の海上砲台・品川台場を築造しました。安政5年(1858年)に諸外国との修好通商条約が締結されると、安政7年(1860年)と文久元年(1861年)に幕府は品川沖から使節団を派遣しました。攘夷派浪士は、文久2年(1863年)に品川御殿山英国公使館の焼討事件を起こし、慶応2年(1866年)には米価高騰により品川宿で打ちこわしが起こりました。

聖蹟公園(品川本陣跡)
参勤交代の大名が宿泊や休憩に利用し、大政奉還で京都から江戸に向かう明治天皇が休憩された品川宿本陣が置かれていました。

鈴ケ森遺跡
慶安4年(1651年)に設置された御仕置場で、通行人が多い東海道沿いで死罪以上の刑を執行し、刑をさらすことで犯罪を抑止しました。

沢庵墓
沢庵和尚は、3代将軍・徳川家光の命により東海寺を開山しました。沢庵が家光をもてなした大根の粕漬けがたくあん漬けと呼ばれるようになりました。

賀茂真淵墓
江戸時代中期の国学者で万葉集を研究して万葉風の和歌を復興し、荷田春満・本居宣長・平田篤胤とともに国学の四大人と称されます。

熊本藩主細川家墓所
明治4年(1871年)に熊本藩主細川家の菩提寺・妙解院が廃寺となり、東海寺の内部に7人の藩主をはじめ細川家一族の墓が残されています。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治5年(1872年)に新橋~横浜駅の鉄道開業に伴い、品川駅が建設されました。明治6年(1873年)に品川硝子製作所が設立して日本で初めて本格的な西洋ガラスが製造されました。大名屋敷が集中していた御殿山などの高台は有力者の宅地へと転用され、高級住宅街を生み出しました。
関東大震災と戦争
第一次世界大戦の好景気を背景に臨海部に工場が建設・拡張され、京浜工業地帯の素地を形成していきました。大正12年(1923年)の関東大震災で甚大な被害を受け、被災した人びとが荏原地区などの内陸の台地部へ移住しました。太平洋戦争の空襲で壊滅的な被害を受けましたが、高度経済成長期を通じて国際都市として復興を遂げました。