歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

目黒区

東京都目黒区の目黒不動尊

東京都目黒区は東京23区の南西部に位置する目黒川の桜並木や目黒のサンマで有名な区です。武蔵野台地の南東部に位置し目黒川と呑川が形成する谷とその支谷が台地を刻んでいます。緑と住宅街、商業施設がバランスよく配置されているオシャレな街が広がります。

概要

面積
14.67km2
人口
284,094人(2022年2月1日)
区の木
シイ
区の花
ハギ
区の鳥
シジュウカラ
地図

歴史

目黒区は、江戸市中への野菜供給地として江戸の食を支えました。目黒不動尊で親しまれる瀧泉寺の門前町が形成していくと、多くの参拝者を対象として行人坂に茶屋が置かれました。大圓寺で起きた大火は江戸市中を焼き尽くし、明和の大火と呼ばれる江戸三大大火の一つとされました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

目黒川左岸の台地上に旧石器時代の大橋遺跡が残ります。目黒川右岸には縄文時代早期の集落である中目黒遺跡、縄文時代中期の集落である油面遺跡のほか縄文時代後期から晩期の集落である東山貝塚遺跡が残ります。氷川遺跡などでは弥生時代末期からの集落跡が見つかりました。

古墳時代、飛鳥時代

5~6世紀の円墳である狐塚古墳などが造営され、東京大学駒場構内遺跡では古墳時代の集落跡や火葬墓が確認されています。律令体制が成立すると、目黒区一帯は武蔵国荏原郡に属しました。

奈良時代、平安時代

大同元年(806年)に大鳥神社が創建したとされ、大同3年(808年)に天台座主慈覚大師円仁により瀧泉寺(目黒不動尊)が創建しました。平安時代の武蔵国では武蔵七党が勢力を広げ、その流れを汲む目黒氏が荏原郡目黒村一帯を統治しました。

東京都目黒区の大鳥神社

大鳥神社

日本武尊を主祭神とする目黒区最古の神社で、天保6年(1835年)に農家が浅草から取り寄せた品物を販売して酉の市が始まりました。

東京都目黒区の瀧泉寺(目黒不動尊)

瀧泉寺(目黒不動尊)

熊本県・木原不動尊と千葉県・成田不動尊と並ぶ日本三大不動の一つで、慈覚大師が比叡山に向かう途中で不動明王の霊夢を見て、その像を刻んで安置したことに始まります。

鎌倉時代、南北朝時代

目黒氏は鎌倉幕府の御家人となり、建久元年(1190年)の源頼朝の上洛で目黒弥五郎が随従しました。建保6年(1218年)に目黒小太郎は陸奥国に移住しますが、承久3年(1221年)の後鳥羽上皇が鎌倉幕府を討つために起こした承久の乱では鎌倉幕府の武士として戦いました。

室町時代、安土桃山時代

大永4年(1524年)に北条氏綱が江戸城を奪取したことで北条氏の治下に入りました。天正18年(1590年)に豊臣秀吉が後北条氏を滅ぼすと徳川家康が関東に移封となり、三田村・上目黒村・中目黒村・下目黒村が徳川氏の直轄地になり、碑文谷村の一部が旗本神谷氏の知行地となりました。

江戸時代

慶長8年(1603年)に江戸幕府が開かれると、目黒地域は江戸市中への野菜供給地として江戸の食を支えました。目黒不動尊で親しまれる瀧泉寺の門前町が形成されていき、瀧泉寺に続く行人坂には参拝者のための茶屋が並びました。寛文4年(1664年)に玉川上水から取水した三田上水が開削されましたが、享保7年(1722年)に廃止されたため、農業用水を失った農民たちは幕府に直訴し、享保9年(1724年)に三田用水として再び使用されました。

明和の大火(目黒行人坂大火)

明和9年(1772年)に大圓寺で火災が起こり江戸市中628町に延焼する大火となりました。この明和の大火は、大圓寺の前にある行人坂から目黒行人坂大火と名付けられました。目黒行人坂大火は、振袖大火や車町大火とともに江戸三大大火の一つとされました。

東京都目黒区の青木昆陽墓

青木昆陽墓

青木昆陽は甘藷が荒れた土地や天候不順に強いことから八代将軍徳川吉宗に栽培を増やすように進言しました。このことから甘藷先生と呼ばれていました。

東京都目黒区の式亭三馬墓

式亭三馬墓

東海道中膝栗毛の作者・十返舎一九と並ぶ戯作者で、文化6年(1809年)の浮世風呂をはじめ、浮世床、古今百馬鹿などの代表作を生みました。

東京都目黒区の大圓寺

大圓寺

寛永元年(1624年)に出羽湯殿山の修験僧・大海法印が道場を開きました。明和の大火で焼失しますが、幕末に薩摩藩島津家の菩提寺として再興しました。

東京都目黒区の三沢初子墓

三沢初子墓

仙台藩3代藩主・伊達綱宗の側室で、正覚寺の四世と五世の上人に深く帰依しました。没後に邸宅が寺に寄付され、客殿、庫裏などに転用されたといわれます。

東京都目黒区の祐天上人墓

祐天上人墓

江戸時代中期に活躍した浄土宗の高僧で、元禄8年(1695年)に桂昌院に法問を行い、正徳元年(1711年)に芝増上寺第三十六世大僧正に任じられました。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治政府は殖産興業政策のひとつとして、明治11年(1878年)に駒場農学校が開校し、ドイツ人ケルネルを迎い入れてドイツ農法を導入しました。明治18年(1885年)にはドイツ製の設備とドイツ人技師を招いて目黒火薬製造所が創業を始めました。明治20年(1887年)に日本麦酒醸造会社設立し、明治39年(1906年)に札幌と大阪のビール会社が合併して大日本麦酒株式会社となりました。明治40年(1907年)に目黒競馬場が開設されて大変賑わいましたが、太平洋戦争の空襲で区内の3割が焼失しました。