大田区

大田区は東京都の東南部に位置し、東京湾に面しています。南部には多摩川が流れており神奈川県川崎市と接しています。江戸期は東海道の街道筋として人馬が往来する農漁村で沿岸部では海苔の養殖が盛んに行われましたが、現在は京浜工業地帯の一部を形成しています。
概要
- 面積
- 60.83km2
- 人口
- 739,649人(2022年2月1日)
- 区の木
- クスノキ
- 区の花
- ウメ
- 区の鳥
- ウグイス
- 地図
歴史
古くから農漁村を形成して海苔の養殖が盛んに行われました。江戸時代に東海道の整備により人の往来で賑わいました。明治時代を迎えて田園調布の住宅街が建設され、松竹キネマ蒲田撮影所が置かれて流行の発展地となりました。戦後に羽田空港が返還されて日本の空の玄関口となり、中小工場が進出して工場が密集する京浜工業地帯の一部を形成しました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
氷河時代末期に営まれた区内最古の久原小学校内遺跡から旧石器が見つかりました。千鳥窪貝塚から縄文時代中期に埋葬された男性の人骨が発掘され、縄文時代後期には大森貝塚が造営されました。弥生時代の久ヶ原遺跡から竪穴住居跡と弥生土器が見つかり、竪穴住居跡の内部からは炭化した米や植物などが発見されました。

大森貝塚
明治10年(1877年)に来日したアメリカ人動物学者エドワード・シルベスター・モースが、横浜から東京までの汽車の中から貝塚を発見した日本考古学発祥の地です。
古墳時代、飛鳥時代
多摩川流域に多くの古墳が造営され、多摩川下流左岸には50基もの荏原台古墳群が造営され、その一支群には11もの多摩川台古墳群ができました。

宝萊山古墳
4世紀前半の多摩川流域最古の前方後円墳で、荏原古墳群の最初の首長墓です。倣製四獣鏡が見つかるなど初期大和政権と強い関係にありました。

亀甲山古墳
4世紀後半の多摩川流域最大の前方後円墳で、荏原台古墳群に属す首長墓です。横から見た形が亀に似ていたことから名付けられました。

多摩川台古墳群
多摩川下流域左岸の台地上に分布する古墳時代後期の古墳群で、6世紀前半から7世紀中頃まで複数の前方後円墳や円墳が造営されました。
奈良時代、平安時代
律令制により武蔵国荏原郡とされて官衙が置かれました。
鎌倉時代、南北朝時代
北条政子が源頼朝の武運長久を祈り、富士浅間神社に持仏の観音像を祀りました。

洗足池公園
日蓮上人が身延山から常陸国に向かう途中に立ち寄り、休憩で足を洗ったことから名付けられました。かつては灌漑用水として利用されました。

日蓮上人入滅の旧跡
日蓮上人は弘安5年(1282年)に郷主・池上宗仲の館で亡くなり、池上宗仲が約7万坪の土地を寄進して池上本門寺が創建しました。

日蓮上人霊廟
日蓮上人の灰骨が納められている霊廟で、昭和20年(1945年)の空襲で焼失したため、昭和54年(1979年)に再建されました。

多宝塔
日蓮上人を荼毘に伏した日蓮大聖人荼毘處に建立された日蓮上人の位牌を祀る塔で、天保元年(1830年)に小木新七藤原信盛を棟梁として建立されました。
室町時代、安土桃山時代
江戸氏の流れを汲む一族が蒲田氏を名乗り、蒲田忠武らが南朝方の新田義興を多摩川の矢口渡で謀殺しました。後北条氏が台頭して支配下としましたが、天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原討伐で家臣の行方直清などが討死しました。
江戸時代
江戸期は農漁村で海岸の大森・糀谷・羽田地区では海苔の養殖が盛んに行われ、天明年間には羽田猟師町の名主鈴木弥五右衛門が新田を開発しました。東海道の街道筋では人馬の往来で賑わい、文政年間には和中散という道中常備薬を商う山本久三郎が旅人を相手に茶店を開きました。参勤交代や川崎大師の参詣客などは、六郷の渡し、丸子の渡し、大師の渡し、羽田の渡し、矢口の渡しを利用して多摩川を渡河しました。

金保元泰墓
幕府医官の要職を歴任した多紀家初代元泰の墓で、京都で口科(歯科)を業として徳川家康の開幕にあたり金保に改姓しましたが、子孫が姓を多紀に改めました。

奥絵師狩野家墓所
池上本門寺にある中橋狩野家、鍛冶橋狩野家、木挽町狩野家、浜町狩野家の狩野四家の墓所で、最も古い狩野孝信供養塔には元和5年(1619年)が刻まれています。

新井宿義民六人衆墓
領主木原氏の厳しい年貢の取立てに耐えかねた新井宿村の農民6人は、延宝5年(1677年)に直訴する計画が漏れて全員が斬罪に処せられました。

南州海舟評議の処
慶応4年(1868年)に江戸城攻撃のために東征した新政府軍が池上本門寺に本陣を構え、幕臣の勝海舟が西郷隆盛と会見して江戸城無血開城の交渉を行いました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治16年(1883年)に原清次郎が梅の木を植えて梅の名所となりました。明治32年(1899年)に森ケ崎鉱泉が発見され、効用が認められたことで旅館が建ち並びました。大正7年(1918年)から渋沢栄一の計画で田園調布の住宅街が建設され、大正9年(1920年)に松竹キネマ蒲田撮影所が置かれて流行の発信地となりました。昭和27年(1952年)に羽田空港が返還されて日本の空の玄関口となり、中小工場が進出して工場が密集する京浜工業地帯の一部を形成しました。
品川沿岸の海苔養殖
享保2年(1718年)に品川で初めて海苔養殖が行われるようになりました。枝を束ねたソダヒビを植えて海苔の養殖を行い、安永年間に浅草で再生紙の生産が盛んになると、その技術を転用して四角い海苔が開発されました。大正15年(1926年)頃から現在の網ヒビが登場して安定的に海苔を収穫するようになると、日本一の海苔養殖地帯となりました。高度経済成長期で東京湾の埋立が加速すると、昭和5年(1930年)から佐賀県が海苔養殖日本一の座に就きました。

海苔つけ場
和食に欠かせない海苔の養殖日本一は佐賀県になりますが、その技術は品川沿岸で育まれた養殖方法と流通の仕組みが基本になります。

最後の海苔船「伊藤丸」
網ヒビで養殖された海苔は、ベカブネと呼ばれる小さな船での収穫されました。最後の海苔船・伊藤丸は、昭和30年(1955年)代に造船されました。