渋谷区

渋谷区は、谷が入り組み坂が多い地形にありながら渋谷駅周辺の副都心として発展を続けている地域です。江戸時代に田園地帯を形成していましたが、戦後の高度経済成長期に商業化が進み、若者文化が新宿から渋谷に移り変わり、若者文化の中心として日本の流行発信地となりました。
概要
- 面積
- 15.11km2
- 人口
- 241,998人(2022年1月1日)
- 区の木
- ケヤキ
- 区の花
- ハナショウブ
- 地図
歴史
江戸時代以前の記録はほとんどなく不明な点が多いですが、江戸時代以降は諸侯や寺領のほかは幕府の直轄地として統治されていました。渋谷の丘はほとんどが武家屋敷で低地の水田地帯には農家が点在し、宮益坂と元広尾には商家がありました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
西渋谷台地を中心に旧石器時代から人が住んでました。縄文時代には代々木八幡遺跡や明治神宮北池遺跡などができました。弥生時代後期の鶯谷遺跡には集落がつくられ、猿楽遺跡からは稲作に使われた環濠が見つかりました。
古墳時代、飛鳥時代
古墳時代には円墳や横穴墳も築造され、猿楽塚は6~7世紀の円墳であると推定されています。
奈良時代、平安時代
茫漠たる大荒原が広がり史料は全くありません。弘仁2年(811年)に慈覚大師円仁が宝泉寺を創建したとされます。平安時代末期になると河崎基家に与えられ、寛治6年(1092年)に渋谷姓を与えられて治めるようになりました。渋谷城の跡地には金王八幡宮が創建し、建久2年(1191年)に源頼朝が再建したとされます。
鎌倉時代、南北朝時代
鎌倉を中心とする幕府が成立すると、渋谷地域に鎌倉街道が通じました。建暦2年(1212年)に代々木八幡社が創建し、弘安9年(1286年)に一遍上人が妙祐寺の前身となる円正寺を建立しました。
室町時代、安土桃山時代
開発が進んで集落が形成するようになりました。後北条氏が台頭してくると、大永4年(1524年)に北条氏綱と上杉朝興の戦いで渋谷地域が戦禍に遭いました。後北条氏が豊臣秀吉により滅ぼされると、天正18年(1590年)に徳川家康が関東に移封となりました。
江戸時代
田園地帯が広がり稲や麦、野菜などの農業が営まれ、江戸の食を支える近郊農村としての役割を担いました。宮益坂や道玄坂周辺の低地には農家が点在して水車が回るのどかな風景が広がり、水車を利用して精米や精麦が行われていました。
水車一件
水車を利用する精米はコストが抑えられるため、精米を行う舂米屋が圧迫されました。天保3年(1832年)に舂米屋が下渋谷から運搬中の精米を差し押さえる事件が起こり、2年半におよぶ訴訟の結果、水車業者が舂米屋に年間三十両を支払うことで決着しました。

曲直瀬玄朔墓
安土桃山時代から活躍した医師で、正親町天皇、後陽成天皇、豊臣秀次を診療しました。のちに徳川家に仕えて世界初のカルテと言われる医学天正記を著しました。

井上玄徹墓
曲直瀬玄朔の高弟として知られる江戸時代前期の名医で、慶安3年(1650年)に3代将軍・徳川家光の侍医となり将軍や大名の診察を行いました。

岡本玄冶墓
曲直瀬玄朔の学塾で医学を学んだ名医で、元和9年(1623年)に2代将軍・徳川秀忠の侍医となり、3代将軍・徳川家光の痘瘡を治しました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治18年(1885年)に渋谷駅が開業し、明治20年(1887年)に日本麦酒醸造会社の工場が稼働しました。第二次世界大戦後には渋谷駅前に闇市が出現するなど混乱期もありましたが、高度経済成長期とともに商業化が進んで新宿から渋谷へと若者文化の発信地が移りました。

ヱビスビール記念館
平成6年(1994年)にビール全体の歴史や製造方法などを紹介する恵比寿麦酒記念館として開館し、平成22年(2010年)にリニューアルされました。

竹下通り
昭和51年(1976年)から商店街化が進み若者に人気の商店街となり、日本独特のカワイイ文化の発信地となりました。