歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

中野区

東京都中野区の哲学堂公園

中野区は武蔵野台地の中央部に位置し、大半を台地に占められています。中野ブロードウェイをはじめとする個性的な商店街が多く、サブカルチャーの発信地として国内外の文化が集まります。都心へのアクセスが良好でベッドタウンとても発展しています。

概要

面積
15.59km2
人口
341,528人(2022年2月1日)
区の木
しい
区の花
つつじ
地図

歴史

太田道灌が豊島泰経を江古田沼袋合戦で破り支配した地域は、後北条氏の支配を受けて徳川家康へと変わりました。江戸時代に青梅街道が整備されて江戸への物資の輸送や行楽地へ向かう街道として賑わい、現在は中野ブロードウェイをはじめとするサブカルチャーの街となりました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

中野区域では古くから人の営みがあり、富⼠⾒台遺跡、江古⽥遺跡、新井三丁⽬遺跡、広町遺跡から旧石器時代の石器が出土しています。北江古田遺跡からは縄⽂時代後期の漆製品が見つかり、弥⽣時代後期には新井三丁⽬遺跡や広町遺跡で巨大な集落が営まれていました。

古墳時代、飛鳥時代

大型な古墳は見つかりませんが、5世紀から6世紀中期の遠藤⼭古墳群から4基の円墳が見つかりました。

奈良時代、平安時代

7世紀後半に律令体制が成立して武蔵国多摩郡に属して国府が府中市に置かれましたが、稲作に向かない中野区域から人が離れてしまいました。

鎌倉時代、南北朝時代

坂東八平氏の秩父氏の一族である豊島氏が武蔵国で大きな勢力を誇りました。

室町時代、安土桃山時代

文明8年(1476年)に関東管領山内上杉氏の家宰職を巡り長尾景春の乱が起こると、石神井城主・豊島泰経と平塚城主・豊島泰明が長尾景春に呼応して挙兵しました。扇谷上杉氏の家宰・太田道灌は豊島氏を討つべく挙兵し、文明9年(1477年)に沼袋・江古田原合戦となりました。太田道灌は勝利して石神井城を落して豊島氏を滅亡させました。

中野長者伝説

中野の馬売り鈴木九郎は、馬が高値で売れた感謝として浅草観音に全てのお金を奉納しました。この善行で自宅は黄金に満ち溢れて中野長者となりましたが、欲に目がくらんで人夫に黄金を隠させて殺害する悪事を起こしました。九郎の一人娘は暴風雨とともに蛇に化身して池に飛び込み、にわかに湧いた雲とともに天へと昇りました。九郎は嘆き悲しんで出家し、自分の屋敷に正歓寺と七つの塔を建てて娘の菩提を弔いました。

東京都中野区の沼袋氷川神社

沼袋氷川神社

正平元年/貞和2年(1346年)に創建しました。文明9年(1477年)に太田道灌が豊島氏との戦いで本陣を置いて戦勝を祈願しています。

東京都中野区の沼袋氷川神社道灌杉

道灌杉

文明9年(1477年)に太田道灌が豊島氏との戦いで沼袋氷川神社に植樹した杉で、昭和17年(1942年)に枯れて根の一部だけが残ります。

東京都中野区の沼袋江古田原古戦場

沼袋江古田原古戦場

太田道灌と豊島泰経が激突して豊島泰経の弟・豊島泰明ほか数十人が討死し、豊島泰経は石神井城に敗走するも攻め落とされて豊島氏は滅亡しました。

東京都中野区の鈴木九郎長者墓

鈴木九郎長者墓

応永年間に多摩郡中野本郷に移住して、当地を開拓して財を成して中野長者と呼ばれました。当地には中野長者伝説が残されています。

江戸時代

江戸に近い直轄地として御鷹場も置かれていましたが、5代将軍・徳川綱吉の生類憐みの令で、鷹場はお囲いと呼ばれる犬小屋に変化しました。多摩地区で産出する石灰を輸送するため青梅街道が整備されると、中野宿にあらゆる物資の集積地として栄え、味噌や醤油の醸造業、麦などの製粉業など地場産業が発達しました。

淀橋⽔⾞爆発事件

幕末に外国船の来航が頻発すると、幕府は軍備増強のため台場の築造を始めました。大砲の火薬となる焔硝の製造には穀物用の水車が転用されましたが、各地の水車で爆発事故が立て続きました。淀橋周辺の人びとは焔硝製造中⽌を願い出ましたが、淀橋⽔⾞も大爆発を起こして微塵もなく粉砕しました。

東京都中野区の新井白石墓

新井白石墓

江戸時代中期の儒学者で奢侈禁止や学問の振興などの改革を行い、武家諸法度改訂、貨幣改鋳、海舶互市新令の施行、儀式典礼の整備などの実績があります。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治18年(1885年)に5人の実業家が申し出た鉄道敷設は、住民の反対により調整に難航しつつも、明治22年(1889年)に中央線が開通しました。明治30年(1897年)に設置された陸軍鉄道大隊は陸軍通信連隊に改称し、昭和14年(1939年)にスパイ養成学校・陸軍中野学校が敷地内に設けられました。

東京都中野区の哲学堂公園

哲学堂公園

明治37年(1904年)に哲学者で東洋大学の創立者である井上円了が創設した公園で、哲学世界を視覚的に表現した個性的な公園です。