歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

北区

東京都北区の旧古河庭園

北区は東京都の北部に位置し、武蔵野台地の東端部と荒川と隅田川が形成した沖積低地で構成されています。大晦日に古くからの伝承をもとに王子狐の行列が営まれるなど、下町の文化や情緒を残しつつ都会への利便性が高いベッドタウンとして発展を続けています。

概要

面積
20.61km2
人口
352,794人(2021年12月1日)
区の木
サクラ
区の花
ツツジ
地図

歴史

田園風景が広がる土地は、江戸時代に岩淵宿が整備されて岩槻街道最大の宿場町として栄えました。明治時代以降は軍の各種施設が建ち並び兵士やそれに関連する人々の生活の場となりました。近代の日本の発展に尽力した渋沢栄一が飛鳥山で晩年を過ごしたことでも知られます。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

武蔵野台地の縁辺部まで海水が侵入して奥東京湾と呼ばれる内湾が形成されていました。飛鳥山には旧石器時代から続く多くの遺構が残されており、東日本で最大級の弥生時代中期の環濠集落跡も見つかりました。

東京都北区の中里貝塚

中里貝塚

縄文時代中期から後期にかけて当時の海岸線に沿うように形成された国内最大級の巨大な貝塚で、採取した貝を交易品として干貝にしました。

東京都北区の西ケ原貝塚

西ケ原貝塚

縄文時代中期から後期につくられた貝塚で、住居跡や墓壙のほか縄文土器や石器などが出土し、縄文人の人骨も出土しました。

古墳時代、飛鳥時代

有力者が生まれて丘陵部に古墳が造られるようになりました。武蔵野台地東縁に位置する十条台縁辺の十条台遺跡群、荒川右岸台地上の赤羽台古墳群、飛鳥山の飛鳥山古墳群などに古墳が残されています。

東京都北区の飛鳥山1号墳

飛鳥山1号墳

飛鳥山公園の台地上にある6世紀頃の円墳群で、1号墳はその中でも中心的な墳丘であり、石室から太刀の一部などが出土しています

奈良時代、平安時代

律令体制が成立して武蔵国豊島郡に属し、王子に郡衙が置かれたとされます。律令体制が崩れて武士が支配するようになり、平安時代後期から室町時代にかけて豊島氏が支配しました。

東京都北区の御殿前遺跡(豊島郡衙跡)

御殿前遺跡(豊島郡衙跡)

先土器時代から近世にわたる複合する遺跡で、奈良時代から平安時代に造られた建物の跡は武蔵国豊島郡の郡衙(地方役所)と推定されています。

鎌倉時代、南北朝時代

鎌倉幕府の御家人に列せられた豊島氏は、豊島荘の支配基盤を固めていきました。元亨2年(1322年)に王子神社の前身である若一王子権現が建立され、王子の地名が生まれました。

室町時代、安土桃山時代

関東の動乱で頭角を現した太田道灌と敵対した豊島泰経は、文明9年(1477年)の練馬区沼袋・江古田付近の戦いで敗れて滅亡しました。太田道灌も主君・扇谷上杉氏に暗殺され、上杉氏は衰退して後北条氏が勢力を拡大しました。後北条氏は武蔵国を支配するようになりましたが、天正18年(1590年)に後北条氏が滅亡して徳川家康が移封してきました。

東京都北区の平塚神社

平塚神社

豊島泰経が太田道灌に本拠の石神井城を攻略され、文明10年(1478年)に平塚城で再び蜂起しますが、太田道灌に破れて豊島氏は滅亡しました。

東京都北区の稲付城跡

稲付城跡

太田道灌が築城したとされる砦跡で、太田道灌の孫・太田資高が居城としました。太田資高の子・太田康資は後北条氏の家臣として岩淵郷を所領としました。

江戸時代

幕府が整備した岩槻街道は、将軍家が日光参拝する御成道となりました。宿場町として岩淵宿が整備されると、岩槻街道最大の宿場町として大いに賑わいました。8代将軍・徳川吉宗は、元文2年(1737年)に飛鳥山に桜を植えて江戸庶民の行楽地となりました。

王子の狐伝承

王子周辺は田園地帯が広がり、古くから狐が多く生息していました。大晦日になると各地の狐が王子稲荷神社に詣でると伝えられており、狐たちが発する狐火を数えることで翌年の豊作を占いました。この伝承は歌川広重の浮世絵や落語・王子の狐で伝えられ、現在も大晦日の王子狐の行列として伝承されています。

東京都北区の西ヶ原一里塚

西ヶ原一里塚

岩槻街道(日光御成街道)に設置された一里塚で、明治時代に電車の敷設工事で存続が危ぶまれるも渋沢栄一らによる保存運動により残されました。

東京都北区の多紀家墓所

多紀家墓所

多紀家は将軍家の奥医師を務めた家系です。明和2年(1765年)に多紀元孝が医学校・躋寿館を設立し、多くの人びとに医学を伝授しました。

明治時代、大正時代、昭和時代

日本資本主義の父と呼ばれる渋沢栄一は、明治6年(1873年)に日本初の製紙会社・抄紙会社を設立して王子で製紙業を始めました。渋沢栄一は王子の地を大変気に入り、明治11年(1878年)に曖依村荘と呼ばれる別荘を飛鳥山に邸宅を建てて晩年を過ごしました。大正12年(1923年)に関東大震災が起こると、被災した人びとが北区に移り住み人口が増加していきました。

王子の製紙業

海外留学を経験した渋沢栄一は、学問や文化の発展に書物や新聞が必要であることを知り、製紙業の国産化を目指しました。古くから和紙の原料である楮の産地である王子に工場が建設され、明治26年(1893年)に王子製紙株式会社に社名変更しました。戦後の財閥解体により苫小牧製紙、本州製紙、十條製紙に解体されました。なお本州製紙の江戸川工場は、工場排水が浦安の水質汚染を招き、浦安沖の漁民が漁業権を全面放棄したことで埋立が加速し、東京ディズニーランドが生まれました。

東京都北区の洋紙発祥の碑

洋紙発祥の碑

日本の近代化を進めるため、渋沢栄一は日本初の製紙会社・抄紙会社を設立し、明治8年(1875年)に王子の工場で操業を開始しました。

東京都北区の晩香盧

晩香盧

大正6年(1917年)に敷地内に竣工した建物で、清水建設の前身である清水組が渋沢栄一の77歳の喜寿を祝い寄贈しました。

東京都北区の青淵文庫

青淵文庫

大正14年(1925年)に竣工した建物で、渋沢栄一記念財団の前身である竜門社が渋沢栄一80歳の傘寿と男爵から子爵へ昇格した祝いとして寄贈しました。

東京都北区の旧古河邸

旧古河邸

大正6年(1917年)に建てられた古河財閥3代目当主・古河虎之助の本邸で、本邸と西洋庭園はイギリス人建築家ジョサイア・コンドルが設計しました。

東京都北区の旧古河氏庭園

旧古河氏庭園

大正8年(1919年)に完成した池泉回遊式庭園で、水と石の魔術師と言われた京都の庭師・小川治兵衛が手掛けました。