荒川区

荒川区は東京都の東北部に位置し、南西部は高台があり北東部を迂回して隅田川が流れます。交通のアクセスが良く、日暮里駅は成田空港へのハブ駅としても機能しています。神社仏閣などが多く下町情緒を各所に残しながら、新たな街づくりが進められています。
概要
- 面積
- 10.16km2
- 人口
- 216,416人(2022年2月1日)
- 区の木
- サクラ
- 区の花
- ツツジ
- 地図
歴史
江戸時代に千住大橋が架橋されて江戸の玄関口となり、千住下宿は宿場町として大いに賑わいました。明治時代に荒川の水上交通路を利用した官営千住製絨所などの工場群が建設され、物づくりの町としての素地ができました。戦後は下町情緒を残しながら宅地化が進み、新たな町づくりが進めらています。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
旧石器時代から人が生活しました。縄文時代後期の日暮里延命院貝塚や縄文時代前期から弥生時代を中心とした道灌山遺跡などがあり、台地上に人びとの暮らした跡が見られます。弥生時代に低地が陸地化すると、台地に住んでいた人びとは低地に移住して稲作を始めました。
古墳時代、飛鳥時代
縄文海進の影響で大部分が低湿地帯でしたが、数少ない高台に人びとが居住して生活しました。
奈良時代、平安時代
律令体制が成立して武蔵国豊島郡の一部となり、荒川には渡しが置かれて交通の要衝としての素地が育まれていきました。延暦10年(791年)に坂上田村麻呂が円通寺を創建し、延暦14年(795年)に役小角の弟子・黒珍が素盞雄神社を創建しました。

首塚・七重の塔
奥州を鎮定した源義家は、戦いの戦果として挙げた48首級を円通寺境内に埋葬して塚を築いて弔いました。この塚から小塚原と呼ばれました。

素盞雄神社
延暦14年(795年)に役小角の弟子・黒珍が奇岩・瑞光石に祈りを捧げると、牛頭天王と飛鳥権現が降臨して神託を受けたことから創建されました。
鎌倉時代、南北朝時代
湿地帯が多い閑散とした農村で、鎌倉幕府の有力御家人である葛西氏が支配したとされます。
室町時代、安土桃山時代
葛西氏の影響力が弱まると、利根川や荒川の水運の要衝で軍事的に重要性が高いため、鎌倉公方と関東管領上杉氏の対立などで抗争の地となりました。やがて後北条氏が勢力を拡大し武蔵国を支配するようになりましたが、天正18年(1590年)に後北条氏が滅亡して徳川家康が移封してきました。
山吹の里伝説
鷹狩に興じていた太田道灌は、突然の雨で農家から蓑を借りようとしました。農家の娘は山吹の花を差し出して蓑を貸してくれませんでした。これに太田道灌は腹を立てますが、家臣が『七重八重 花は咲けども山吹の 実のひとつだになきぞ悲しき』と古歌を伝え、「実の」と「蓑」をかけて、お貸しできる蓑が無いことを詫びていると諭しました。

太田道灌像
扇谷上杉氏の家宰として活躍した文武両道の武士でしたが、権力が集中したことに危機感を抱いた扇谷上杉氏当主により暗殺されました。

山吹の花一枝像
山吹の里伝説で山吹の花を太田道灌に捧げた少女の像で、太田道灌は少女が古歌に込めた意味を通じて、和歌の勉強に励んだとされています。
江戸時代
上野寛永寺領と江戸幕府の直轄地からなり、点在する湿地帯は徳川将軍家の御鷹場となりました。台地上には寺院が並び低地には農村が広がり、谷中生姜、荒木田大根、三河島菜などの伝統野菜も生産されていました。日暮里は春の桜や秋の紅葉の行楽地として、日が暮れるのも忘れてしまうところから名付けらています。

市河寛斎墓
市河寛斎は江戸時代後期の儒学者で、漢詩に長けていました。江湖詩社を設立して菊池五山・柏木如亭・大窪詩仏らを輩出しました。

市河米庵墓
市河米庵は幕末の儒学者で、林述斎や柴野栗山から朱子学を学びました。巻菱湖、貫名海屋とともに幕末の三筆と称されました。

永井尚志墓
江戸末期の幕臣で外国奉行や軍艦奉行などの要職を歴任し、徳川慶喜の大政奉還で奏上文を草案したことでも知られます。

初代・二代松林伯円墓
江戸後期から明治時代の2代にわたる講談師で、初代は人気を博しつつも安政江戸地震で圧死し、2代松林伯円は鼠小僧などの白浪物を得意として泥棒伯圓と呼ばれました。

彰義隊戦死者墓
彰義隊士の遺骸266体が埋葬された円通寺に旧幕臣が彰義隊を追悼して建立し、三河屋幸三郎が向島の別荘に秘そかに建てた慰霊塔も移設されています。

経王寺山門
明暦元年(1655年)に要詮院日慶が開山した寺院で、彰義隊士の一部が逃げ隠れたため新政府軍が銃撃した弾痕が残されています。

旧上野の黒門
彰義隊を供養したことが縁となり、明治40年(1907年)に上野の寛永寺から移設されました。残されている数多くの弾痕は戦いの激しさを物語ります。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治12年(1879年)に官営羊毛工場の千住製絨所が建設され、大日本紡績橋場工場や鐘淵紡績南千住工場がつくられたことで繊維工業の町として発展を遂げました。明治43年(1910年)に荒川の氾濫による大水害を契機に荒川放水路の開削が始まりました。大正12年(1923年)の関東大震災で人口が流入し、農地は宅地化されていきました。
戦後の高度経済成長
戦後の混乱で闇市が自然発生すると、闇市の中で駄菓子問屋街が生まれました。浅草周辺の古着商が移転して生まれた日暮里の繊維問屋街は、高度経済成長で最盛期を迎えますが、縫製工場の海外移転が進むにつれて個人販売が主軸となりました。昭和53年(1978年)に成田空港が開設されると、日暮里駅がハブ駅となりました。

日暮里繊維街
約1キロにわたり生地織物店が軒を連ねる繊維専門の商店街です。安さと豊富な品揃えで、プロの服飾関係者から手芸愛好家まで幅広い層に利用されています。

三ノ輪商店街
繊維業の発達により多くの労働者が住むようになり、大正時代にこれら労働者が利用する商店街が形成しました。現在も昭和レトロな雰囲気が色濃く残ります。