歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

葛飾区

東京都葛飾区の市街地

葛飾区は東京都の北東部に位置し、利根川や荒川の堆積作用で作られた沖積平野が形成しています。明治時代を迎えるまで農村地帯が広がりましたが、震災などで多くの人々が移住者しました。都会でありながらも地域住民同士のつながりが強く、助け合いの精神が息づく下町情緒あふれる庶民的な街が形成されました。

概要

面積
34.80km2
人口
450,868人(2022年1月1日)
区の木
シダレヤナギ
区の花
ハナショウブ
地図

歴史

葛飾区は隅田川や江戸川に挟まれた水郷地帯として発展してきました。室町時代は関東管領上杉氏と鎌倉公方足利氏で覇権を争い、のちに台頭してきた後北条氏が治めました。江戸時代には農村地として整備され、昔ながらの人情味溢れた地域の基礎となりました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

縄文海進と呼ばれる海面上昇により海の中にあり、やがて陸地化して人が活動するようになり、水元飯塚遺跡、柴又河川敷遺跡や古録天東遺跡、御殿山遺跡から弥生土器が見つかりました。

古墳時代、飛鳥時代

古墳時代前期から人が住むようになり、御殿山遺跡から竪穴住居跡などの遺構のほか漁網の底に取り付ける環状土錘が出土しているため、農耕と漁労を生業として生活していました。農耕が定着して有力者が生まれると、6世紀後半の柴又八幡神社古墳や南蔵院裏古墳や7世紀後半の熊野神社古墳などが造営されていきました。

東京都葛飾区の立石

立石

古墳時代に古墳の石室をつくるために千葉県から運ばれてきたと言われます。平安時代から道しるべとして使われ、立石様として祀られています。

奈良時代、平安時代

律令体制が成立して下総国葛飾郡に属し、下総国の国府や国分寺は葛飾郡のうち現在の千葉県市川市に置かれました。平安時代後期に荘園が成立していくと伊勢神宮に寄進されて、豊島清元が治めるようになりました。平安時代末期には豊島清元の子で葛西氏を称した葛西清重が治めました。

鎌倉時代、南北朝時代

奥州藤原氏との戦いで大きな戦果を挙げた葛西清重は、奥州も領地を得たことで拠点を奥州に移して奥州の治安維持を行いました。葛西清重は鎌倉幕府の御家人として畠山重忠の謀反で先陣となり、鎌倉幕府と朝廷が対立した承久の乱では宿老のひとりとして鎌倉に留まりました。

東京都葛飾区の葛西清重墓

葛西清重墓

源頼朝の挙兵に応じて平氏追討のために西国に赴き、また奥州藤原氏征伐にも参加して功績を挙げ、奥州惣奉行として奥州支配の任に当たりました。

室町時代、安土桃山時代

室町幕府が成立すると、葛飾区域は上杉氏に与えられました。葛飾区域は川が海へと繋がり、海と内陸を結ぶ関東の玄関口として舟の行き来が盛んになりました。室町幕府と鎌倉府の足利氏が対立するようになると、鎌倉府は仲裁をしていた上杉氏を暗殺しました。幕府と上杉氏は鎌倉府と対立して争う享徳の乱となりました。

葛西城の攻防

関東進出を狙う北条氏綱は、天文7年(1538年)に葛西城を攻略して関東攻略の前線基地としました。北条氏の台頭で関東の情勢は不安定となり、小弓公方・足利義明と対立して第1次国府台合戦に発展すると、北条氏は葛西城を前線基地としました。関東管領を継承した上杉謙信が関東に進出して葛西城は攻略されますが、のちに北条氏が取り返しすなど攻防が繰り返され、永禄7年(1564年)の里見義弘との第2次国府台合戦では、葛西城が北条氏の拠点となりました。(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐では、豊臣軍に攻められて葛西城は落城して取り壊されました。

東京都葛飾区の葛西城跡

葛西城跡

享徳の乱で幕府・上杉氏と鎌倉府が争うようになると、上杉氏は葛西城を築いて防御の拠点とし、江戸川を挟んで両陣営が睨み合いました。

江戸時代

江戸幕府が開かれると下総国から武蔵国に編入されて幕府領となり、千住宿から水戸や佐倉を結ぶ水戸佐倉道が通りました。徳川将軍家が鷹狩を行う荒地でしたが、人口が増加する江戸を支えるために水田地帯に整備されました。8代将軍・徳川吉宗が造営を指示した亀有溜井は、のちに洪水で破壊して井沢弥惣兵衛が新たに作り替えています。

東京都葛飾区の帝釈天題経寺

帝釈天題経寺

寛永6年(1629年)に日栄上人が設けた庵に始まり、安永8年(1779年)に帝釈天の像が彫られた板が発見されて参拝客が急増しました。

東京都葛飾区の山田検校墓

山田検校墓

江戸中期の琴曲家で、江戸で大きな人気を得た山田流箏曲の始祖です。文化14年(1817年)に浅草の源照寺に葬られましたが、震災後に現在地に改装されました。

東京都葛飾区の安積艮斎墓

安積艮斎墓

江戸後期の儒学者で昌平坂学問所で儒学を講じました。文久元年(1861年)に死去して墨田区の妙源寺に葬られましたが、震災後に現在地に改葬されました。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治2年(1869年)に小菅県となりが、明治4年(1871年)の廃藩置県で小菅県が廃止されて東京府に属しました。西洋化を進める明治政府は、小菅や東金町にレンガ工場を設立して品質の高い煉瓦を製造しました。大正12年(1923年)の関東大震災や太平洋戦争で被害を最小限に抑えられたため、急速に人口が流入して宅地化が進みました。

東京都葛飾区の題経寺邃渓園

題経寺邃渓園

江戸時代初期に創建した題渓寺にある寺院庭園で、昭和40年(1965年)に向島の庭師・永井楽山が大幅に手を加えて完成させました。

東京都葛飾区の葛飾柴又の文化的景観

葛飾柴又の文化的景観

葛飾柴又は帝釈天題経寺の参道は、明治時代中期には柴又の近くで収穫される葛西米を使い、農家が副業として煎餅や草餅などを扱う店舗が門前に広がりました。