歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

三鷹市

東京都三鷹市の井の頭恩賜公園

三鷹市は多摩地域東部に位置し、武蔵野台地の南端部にあります。井の頭公園など豊かな自然環境に恵まれる緑と水の公園都市で、太宰治など多くの文学者が住んでいました。全体的に平坦な地形が広がり、高度経済成長期から都心のベッドタウンとして発展しました。

概要

面積
16.42km2
人口
196,290人(2021年10月1日)
市の木
イチョウ
市の花
ハナカイドウ
地図

歴史

徳川将軍家の3つの御鷹場から名付けられた三鷹は、明治時代を迎えるまで寒村が点在する農村地帯でした。関東大震災で移住者が相次ぎ、航空機関連の軍需工場が建設されて軍都として軍需産業が発展しました。高度経済成長期には都心のベッドタウンとなりました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

古くから湧水に恵まれていた三鷹市域は、野川や仙川沿いを中心に旧石器時代から縄文時代にかけて多くの集落が形成され、縄文時代には人口密度が高くなりました。気温の寒冷化により多摩地方で人が住まなくなりましたが、弥生時代の終わりから人が住むようになりました。

東京都三鷹市の井の頭池遺跡群

井の頭池遺跡群

殿山遺跡、吉祥寺南町一丁目遺跡、吉祥寺南町三丁目遺跡の3つのエリアに分けられ、縄文時代中期から後期初頭の竪穴式住居が見つかりました。

古墳時代、飛鳥時代

弥生時代後半から人びとが住むようになり、古墳時代後期の6~7世紀に再び活発に人が住むようになりました。7世紀の須恵器などが発見された天文台構内古墳は、全国的に珍しい上円下方墳の形状をしています。7世紀後半からは野川沿いに横穴墓群が造営されました。

東京都三鷹市の出山横穴墓群8号墓

出山横穴墓群8号墓

丘陵の斜面に穴を掘りその中に遺体を埋葬した古代の墓で、7世紀頃に造営されました。内部には石が敷かれて4体の遺体が埋葬されていました。

奈良時代、平安時代

律令体制が成立すると、三鷹市域は武蔵国多磨郡に属しました。のどかな農村地帯でしたが、平安時代後期になると武蔵七党に代表される有力武士団が台頭しました。

鎌倉時代、南北朝時代

武蔵七党の一つ西党の一族である立川氏が鎌倉幕府の御家人として活動し、地域の徴税や治安維持を担いました。鎌倉から各地を結ぶ鎌倉街道が整備され、武士や商人などが通行する交通の要衝となりました。

室町時代、安土桃山時代

新たな集落が形成するようになり、湧水や多摩川から引いた水を利用して農耕が営まれていました。天文6年(1537年)に北条氏綱の家臣・北条綱種が三鷹の氏神として牟礼神明社が創建し、地域に根差した信仰が育まれていきました。

江戸時代

青梅街道や五日市街道が開通した三鷹市域は、江戸幕府の直轄地や旗本領となりました。徳川将軍家が鷹狩りを行う御鷹場が3か所できたことで、三鷹と呼ばれるようになりました。承応3年(1654年)に玉川上水が完成したことで新田開発が進み、新たな農村が生まれるなど発展しました。

東京都三鷹市の井の頭池(神田上水水源地)

井の頭池(神田上水水源地)

江戸幕府が整備した井の頭池を水源とする神田上水は、大正末年に水質・水量とも悪くなり、昭和8年(1933年)に取水口が塞がれました。

明治時代、大正時代、昭和時代

大正12年(1923年)の関東大震災により、農村地帯の三鷹に都心から人びとが移り住んで住宅地化が進みました。昭和初期に航空機関連の軍需工場が建設されて軍需産業が発展し、軍都として人口が急増しました。第二次世界大戦では軍需工場が攻撃目標となり、空襲で大きな被害を受けました。

東京都三鷹市の三鷹の森ジブリ美術館

三鷹の森ジブリ美術館

昭和60年(1985年)に設立したスタジオジブリが手掛けたアニメーションの世界を体験できる美術館で、平成13年(2001年)に開館しました。