調布市

調布市は多摩地域の南東部に位置し、都心へのアクセスが良いベッドタウンとして発展を続けています。武蔵野台地の南縁部に位置しており、多摩川により形成した沖積低地と2つの段丘で構成されます。段丘と低地の境にははけと呼ばれる急な崖があり、豊かな湧き水が得られることから人の生活に影響を与え、特徴的な地形を含め豊かな自然景観を生みました。
概要
- 面積
- 21.58km2
- 人口
- 242,987人(2022年2月1日)
- 市の木
- クスノキ
- 市の花
- サルスベリ
- 市の鳥
- メジロ
- 地図
歴史
多摩川を挟んで武蔵国と相模国が接する係争の地は、江戸時代に布田五宿と呼ばれる宿場町を形成しました。関東大震災で都心が被災すると、多くの人びとが移り住んで宅地化や工場の進出が進みました。昭和初期になるとフィルムの現像に適した良質な地下水が豊富なため、映画撮影所が相次いで開設されました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
旧石器時代から人の営みがあり、野川遺跡、飛田給北遺跡、野水遺跡が残されています。縄文時代には飛田給・下布田・東原など湧水が得られる地域に集落が形成しました。弥生中期後半には、野川や仙川沿いの低湿地に小規模な水田が出現しました。

下布田遺跡
縄文時代終末期の集落跡で、有力者の祭祀場だと思われている方形配石遺構が確認され、紅バラのような赤く塗られた滑車型土製耳飾が出土しました。
古墳時代、飛鳥時代
5~7世紀にかけて飛田給・下石原・上布田・下布田・国領南などの古墳群が造営されましたが、墳丘部分は削られて古墳の形状は一目では分かりません。

狐塚古墳(下布田6号墳)
多摩川中流域左岸に5世紀前半から7世紀前半にかけて造営された円墳で、20基の円墳からなる下布田古墳群のほぼ中央に位置しています。
奈良時代、平安時代
古代にこの地で栽培された麻を多摩川の水にさらして布を織り、税の一つである調として納めていたことから調布と名付けられたとされます。天平5年(733年)に満功上人が法相宗の寺院として深大寺を創建しました。平安時代になると、狛江氏や金子氏がこの地を治めました。

深大寺
武蔵野台地の崖地に位置するため、崖地に集まる豊富な水が湧き出て豊かな自然と景観を生み出し、古くから龍神信仰が根付いていました。

深大寺釈迦堂
飛鳥時代後期に奈良で作られた東日本最古の釈迦如来像が安置されています。背後の山肌には慈覚大師が自ら石に刻んだ延命菩薩が安置されています。
鎌倉時代、南北朝時代
鎌倉幕府の直轄地となり、鎌倉街道が通りました。鎌倉街道は武士が鎌倉へ向かうための軍事的な道でしたが、物資の運搬や文化交流の道としても機能しました。
室町時代、安土桃山時代
多摩川を挟んで武蔵国と相模国が接する地で、扇谷上杉氏と古河公方、山内上杉氏が争奪する地となりました。後北条氏が台頭してくると扇谷上杉氏は深大寺城を改築して後北条氏の侵攻に備えますが、北条氏綱は深大寺城を迂回して河越城を攻略したため軍事的な価値を失いました。

深大寺城跡
北条氏綱の侵攻を防ぐため、天文6年(1537年)に上杉朝定が難波田弾正広宗に命じて増築しましたが、戦いに巻き込まれることなく廃城になりました。
江戸時代
徳川家康が江戸幕府を開くと、調布市域の大部分が天領と旗本領となりました。甲州街道が整備されると布田宿、国領宿、上布田宿、下布田宿、小島宿の5つの宿場町が開かれ、これらの宿場町は布田五宿と呼ばれました。上野寛永寺の門主第5世・公弁法親王が深大寺そばを大変気に入り、各地の諸大名などに言い広めたことで有名になり、献上そばとも言われました。
明治時代、大正時代、昭和時代
大正12年(1923年)の関東大震災で都心から多くの人びとが移り住むようになり宅地化や工場の進出が進みました。昭和初期になるとフィルムの現像に適した良質な地下水が豊富なため、日活多摩川撮影所、大映東京撮影所などの映画撮影所が相次いで開設され、東洋のハリウッドと呼ばれる映画の町となりました。

神代植物公園水生植物園
昭和15年(1940年)に一般公開された神代緑地は、昭和36年(1961年)に神代植物公園として都内唯一の植物公園となりました。