横浜市

横浜市は、神奈川県の東部に位置する港湾工業都市です。東京湾に面して鶴見川などの河川が東京湾に注ぎ、柏尾川を支川に持つ境川が相模湾に注いでいます。江戸時代に横浜港が開かれから国際港湾都市となり、東洋一の中華街が形成されました。
概要
- 面積
- 437.56km2
- 人口
- 3,775,763人(2021年11月1日)
- 市の木
- イチョウ、ケヤキ、サザンカ、サンゴジュ、シイ、ツバキ
- 市の花
- バラ
- 市の歌
- 横浜市歌
- 地図
歴史
江戸時代まで寒村である横浜市は、安政6年(1859年)に横浜港が開かれて発展しました。山手には外国人居留地が置かれ、我が国初めての鉄道の敷設とともに横浜市街に旧横浜正金銀行本店や横浜中華街が造営されていきました。太平洋戦争の大空襲で被害を被りましたが、国際港湾都市としての性質は変わらず発展を遂げています。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
古代の横浜市は鶴見川や早渕川流域の台地で人びとが生活していました。横浜市で最古の遺跡である矢指谷遺跡では旧石器時代末期の人びとの活動の痕跡が残ります。縄文時代中期には三の丸遺跡のような環状集落と呼ばれる大型の集落を造営して生活していました。

三殿台遺跡
縄文時代から古墳時代にかけて大規模な集落が形成されました。石積の枠線は住居跡です。

大塚・歳勝土遺跡
弥生時代中期の農耕集団の集落で、集落の周囲には外敵を防ぐ濠が巡りました。大塚遺跡で生活した人びとは歳勝土遺跡の方形周溝墓に埋葬されました。
古墳時代、飛鳥時代
4世紀後半から7世紀にかけて、地域の首長とそれに関係する人たちの墓所が造営されました。

市ヶ尾横穴古墳群
6世紀後半から7世紀後半に造営された19基の横穴墓で、横穴墓の入口前の広場部分から発見された刀や土器類などの遺物は、死者を弔う儀式で使用されたと考えられています。

稲荷前古墳群
前方後円墳2基を含む10基の古墳と9基以上の横穴墓からなります。古墳からは玉類や鉄器などの副葬品が発見されています。
奈良時代、平安時代
古代の律令国家では全国を国に分け、郡、郷、里を置きました。荏田古墳群には古代都筑郡の郡衙(役所)の跡と言われる長者原遺跡が造営されています。この範囲には正殿と脇殿と考えられる掘立柱建物が発見されています。
鎌倉時代、南北朝時代
鎌倉に武家政権が成立すると、金沢区の六浦は中世都市鎌倉を支える物資の集積地として諸国から商人や職人など多くの人たちが集まりました。鎌倉幕府2代執権北条義時の孫・北条実時は、正嘉3年(1259年)に称名寺を建立して自身の居館に祀られていた阿弥陀三尊を祀り金沢北条氏の菩提寺としました。建治元年(1275年)頃には政治・文学・歴史などの蔵書を収めた金沢文庫を創設しました。

朝比奈切通
六浦に集積された物資は鎌倉の山を開削した朝比奈切通を通り鎌倉へと運ばれました。

称名寺境内
北条実時が持仏の阿弥陀三尊を祀り創建しました。元弘3年(1333年)に北条氏が滅亡しても有力者の庇護を受けましたが、江戸時代に大きく衰退しました。
室町時代、安土桃山時代
鎌倉公方と関東管領上杉家が争うようになると、鶴見川水運を生かせる拠点として小机城が重要視されました。文明8年(1476年)の長尾景春の乱では、長尾景春に加勢した豊嶋氏が城主矢野氏とともに小机城に籠城しましたが、扇谷上杉家の太田道灌が攻め落として乱を終結させました。
徳川家康の統治
太田道灌が扇谷上杉定正に暗殺されると後北条氏が台頭しましたが、天正18年(1590年)に豊臣秀吉の小田原征伐で北条氏が滅亡すると、関東の地は徳川家康に与えられました。徳川家康は、慶長6年(1601年)に江戸と京都を結ぶ重要街道として東海道を整備し、街道には里程の目安として一里塚を築いて神奈川宿と保土ヶ谷宿を設けました。

蒔田城
世田谷城主吉良成高の子で北条氏綱の娘婿である吉良頼康は、蒔田を与えられて館を築いて統治を行いました。

吉良氏の供養塔
蒔田を与えられた吉良氏は勝国寺を菩提寺としました。後北条氏が滅ぶと吉良氏は所領を失い、蒔田氏と名乗り徳川家康に仕えました。
江戸時代
慶長8年(1603年)に徳川家康が江戸幕府を開き、横浜のほとんどは幕府領となりましたが、享保6年(1721年)に武州金沢藩が成立して米倉氏が統治するようになりました。東京湾に面する寒村は沿岸部で新田開発が行われ、江戸の材木商・吉田勘兵衛は寛文7年(1667年)に吉田新田を開発しました。
黒船来航と開国
嘉永6年(1853年)にアメリカ東インド艦隊司令長官ペリー率いる4隻の軍艦が浦賀沖に現れました。アメリカはアジア進出と太平洋の捕鯨ために必要な水や薪を補給するため、鎖国体制を敷く日本に開国を迫りました。こうした外国の圧力により安政5年(1858年)には日米修好通商条約が締結され、翌年に横浜が開港しました。横浜には外国人が居留するようになり、文久2年(1862年)には薩摩藩主島津久光の行列を英国人が横切り、薩摩藩士が英国人を斬殺する生麦事件が起きました。

品濃一里塚
慶長9年(1604年)には新たに戸塚宿が成立し、保土ヶ谷宿と戸塚宿の間には品濃一里塚ができて商人や旅人など通行する人たちが休憩するようになりました。
明治時代、大正時代、昭和時代

横浜山手西洋館
江戸時代末期に鎖国体制を解いて外国人が来航するようになると、山手には外国人居留地が設けられて洋館が建ち並びました。

山手公園
居留地する外国人たちは生活の環境を整えるため公園の設立を要望し、明治2年(1869年)に日本最初の洋式公園である山手公園が造営されました。

横浜中華街
貿易の仲介役として中国人たちが訪れるようになり、吉田新田の海側に造営された横浜新田には中国人が住むようになり、日本最大かつ東アジア最大の横浜中華街が形成しました。

旧横浜正金銀行本店
明治5年(1872年)に新橋から横浜まで鉄道が開設し、明治13年(1880年)には妻木頼黄が設計した3階建煉瓦造の横浜正金銀行が設立されました。

三溪園
生糸貿易で財を成した原三渓(原富太郎)が、京都や鎌倉などから歴史的な価値がある建造物を移築して造営した庭園で、明治39年(1906年)に公開しました。

みなとみらい
太平洋戦争の横浜大空襲で市街地の46%が被害を受けましたが、昭和58年(1983年)にはみなとみらい21事業に着手するなど国際港湾都市として発展を続けています。