歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

横須賀市

神奈川県横須賀市の久里浜港

横須賀市は、神奈川県南東部に位置する三浦半島の北半分を占め、沿岸部は東京湾と相模湾に面しています。中央部には三浦丘陵があり平地が少ないため、古くから埋め立てにより土地を広げてきました。明治時代に横須賀鎮守府が設置されてから軍港都市となりました。

概要

面積
100.82km2
人口
382,694人(2022年2月1日)
市の木
オオシマザクラ
市の花
ハマユウ
市の歌
横須賀市歌
地図

歴史

平安時代末期から三浦半島を治めた三浦氏は、源頼朝に協力した功績で幕府では重臣として強い権力を持ちました。やがて幕府内の権力闘争で宗家は滅ぼされ、庶流も後北条氏に攻められて滅亡しました。江戸時代後期にペリーが来航し開国すると、日本は近代化を進め横須賀製鉄所が建設されました。明治時代には横須賀鎮守府が置かれ、それ以降、軍港都市として飛躍的に発展しました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

旧石器時代から人が生活しており、現在のソレイユの丘の打木原遺跡と長浜ノ上遺跡からは旧石器時代後期の石器が発掘され、船久保遺跡からは長方形の落とし穴列が発見されています。縄文時代になると人びとは海に突き出た低い丘の先端で生活するようになりました。

神奈川県横須賀市の天神島、笠島及び周辺水域

天神島、笠島及び周辺水域

凝灰岩からできている小島で変化に富んだ岩礁を形作り多様な動植物が分布し、ハマユウやハマボウの群生は日本の北限です。

神奈川県横須賀市の夏島貝塚

夏島貝塚

我が国で最も古い貝塚の一つとされる縄文時代早期の貝塚で、夏島式土器のほか貝類、魚類、哺乳類の骨が大量に出土しています。

神奈川県横須賀市の茅山貝塚

茅山貝塚

縄文時代の貝塚で、縄目はなく貝のすじ跡のある茅山式土器が発見されています。現在は畑となり説明版があります。

神奈川県横須賀市の吉井貝塚

吉井貝塚

縄文時代早期から古墳時代の貝塚で、土器、石器などのほか住居跡が出土しています。鎌倉時代には三浦一族が水軍の基地として怒田城(沼田城)を築城しています。

古墳時代、飛鳥時代

大津古墳群 6世紀末期から7世紀前期に造営されました。前方後円墳と円墳の3基で構成され、前方後円墳には右片袖横穴式石室があります。かろうと山古墳は7世紀中期に造営された円墳で、これが三浦半島で最後に造営された古墳です。

奈良時代、平安時代

桓武天皇の皇子の流れを汲む村岡為通は、前九年の役で源頼義に従い参戦した功績で三浦半島を与えられ、康平6年(1063年)に衣笠城を居城として三浦姓を名乗りました。治承4年(1180年)に源頼朝が平家討伐を掲げて挙兵すると、これに呼応して衣笠城で平家を迎え撃ちました。三浦義澄らは衣笠城から脱出しましたが、三浦義明は最後まで抵抗して討死しました。三浦義澄らは安房国で源頼朝と合流して鎌倉入りを果たし、三浦義明の子・佐原義連は一ノ谷の合戦でいち早く断崖を駆け下り平家の背後を突いて勝利に貢献したほか、文治5年(1189年)の奥州遠征にも参陣しました。

鎌倉時代、南北朝時代

三浦義澄の跡を継いだ三浦義村は、娘の矢部禅尼を執権北条義時の嫡子泰時に嫁がせて外戚となりました。三浦義村の従兄弟にあたる和田義盛は、父杉本義宗などの菩提を弔うため建暦2年(1212年)に薬王寺を創建しました。和田義盛は北条氏と敵対して蜂起して和田合戦を起こすと、三浦義村は北条方に加勢して和田氏を滅ぼしました。

三浦氏の滅亡

関白九条道家は、鎌倉殿として下向した藤原頼経を養育した三浦氏を執権にしようと画策しました。これが露見して九条道家が失脚すると、北条氏の外戚安達氏は三浦氏に戦いを仕掛けて寛元5年(1247年)に宝治合戦となり、三浦氏は敗れて源頼朝の廟所に籠り一族とともに自害しました。

神奈川県鎌倉市の三浦氏やぐら

三浦氏やぐら

宝治合戦で三浦一族ほか500人が自害して三浦氏宗家は滅び、庶流の佐原義連の子らが北条氏側についていたため、佐原盛時が三浦介を継ぎました。

室町時代、安土桃山時代

三浦時継は北条時行に属していましたが、その子三浦高継は足利尊氏に従いました。この勲功により、相模国の中郡(現在の平塚市)と三浦郡のほぼ全域を掌握していました。相模国への進出を目指す伊豆の伊勢宗瑞(北条早雲)は、永正13年(1516年)に三浦半島へ侵攻しました。三浦義同と三浦義意の父子は、天然の島城である新井城に籠り抵抗しますが、一族もろとも滅ぼされ後北条氏が支配するようになりました。

後北条氏の統治

後北条氏が三浦半島を抑えると、後北条氏と安房国里見氏が争うようになりました。里見義弘は弘治2年(1556年)に大軍で三崎を攻撃し、梶原備前守らが応戦して里見軍を追い返しました。天正18年(1590年)に豊臣秀吉による小田原征伐で北条氏が滅亡すると、三浦半島は徳川家康の領地となりました。

江戸時代

燈明堂が慶安元年(1648年)に建てられ明治5年の廃止まで毎日点灯し、万治3年(1660年)から8年を費やして砂村新左衛門が内川新田を開発しました。享保5年(1720年)に奉行所が伊豆下田から浦賀に移されると、浦賀で船の積み荷と乗員を検査する船改めを行いました。浦賀は江戸に出入りする船舶が寄港する商業地として栄えました。

黒船来航

文化7年(1810年)に会津藩主松平容が浦賀周辺の海防のため観音崎・浦賀平根山・城ケ島に台場を構築しました。文政8年(1825年)に幕府が異国船打払令を発布しますが、外国船の脅威を考慮して天保13年(1842年)に薪水給与令に改めました。嘉永6年(1853年)にペリーが来航すると、幕府はついに鎖国政策を転換して嘉永7年(1854年)に日米和親条約(神奈川条約)を結びました。安政7年(1860年)には幕府の使節団が軍艦咸臨丸に乗り込み、浦賀を出港してアメリカへ向かいました。

神奈川県横須賀市の三浦安針墓

三浦安針墓

慶長5年(1600年)に豊後国に漂着したウィリアム・アダムスは、徳川家康の外交顧問として三浦郡逸見に領地を与えられ三浦按針と名乗るようになりました。

神奈川県横須賀市の久里浜港

久里浜港

嘉永6年(1853年)にペリーが来航して久里浜海岸に上陸しました。ペリーは大統領の親書を浦賀奉行所戸田伊豆守、井戸石見守に渡しています。

明治時代、大正時代、昭和時代

近代化を進める明治政府は、明治2年(1869年)に日本初の洋式灯台である観音埼灯台を築造しました。横須賀は軍港として整備されるようになり、明治17年(1884年)に横須賀鎮守府が開府し、江戸幕府が慶応元年(1866年)に建造した近代的な造船所(横須賀製鉄所)は、明治5年(1872年)に横須賀造船所と改称して、明治36年(1903年)から横須賀海軍工廠となりました。

太平洋戦争

太平洋戦争が勃発して戦況が悪化すると、昭和19年(1944年)から空襲を受けるようになりました。丘陵には横穴式の防空壕が掘られ飛行機の格納庫としても使用され、本土決戦に備えてトーチカが築造されて油壺、小網代、松輪の各湾には特殊潜航艇や特殊船艇が配置されました。終戦を迎えるとアメリカ海兵隊が横須賀に上陸して進駐軍の占領下に置かれました。

神奈川県横須賀市の猿島砲台跡

猿島砲台跡

明治17年(1884年)に東京と横須賀軍港の防衛のため砲台が造営されました。

神奈川県横須賀市の千代ヶ崎砲台跡

千代ヶ崎砲台跡

日清戦争中の明治28年(1895年)に会津藩が造営した平根山台場跡に建造されました。